映画 『メランコリア』

監督・脚本:ラース・フォン・トリアー、撮影:マヌエル・アルベルト・クラロ、編集:モリー・マーリーン・ステンスガード、主演:キルスティン・ダンスト、シャルロット・ゲンズブール、キーファー・サザーランド、2011年、135分、デンマーク映画、原題:Melancholia


ジャスティン(キルステティン・ダンスト)とマイケル(アレキサンダー・スカルスガルド)は、自分たちの結婚披露宴を開いてくれるジャスティンの姉クレア(シャルロット・ゲンズブール)とジョン(キーファー・サザーランド )夫婦の屋敷に向かった。

到着がかなり遅れたことでクレアはジャスティンを責めたが、新郎新婦がホールに入ると、ごくふつうに、披露宴パーティが繰り広げられていった。

しかし、そこで囁かれる会話や、ジャスティンの上司、クレア・ジャスティン姉妹の母(シャーロット・ランプリング )らのスピーチには、どこかしら棘があり、ジャスティンはひとり、その場から消えてしまい、また連れ戻されることを繰り返す。・・・・・・

 

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)のラース・フォン・トリアー監督作品。シャルロット・ゲンズブールとシャーロット・ランプリングは『レミング』(2005年)で共演しているし、シャルロット・ゲンズブールはトリアー監督の前作『アンチクライスト』(2009年)に主演している。


メランコリーとは、躁鬱の鬱のことだ。

メランコリアと聞いてまず浮かぶのは、上左のアルブレヒト・デューラーの版画かもしれない。これには数学的な寓話が盛られ、先行きに展望を見させる作品ということで、メランコリーは前向きにとらえられている。

この作品では、その名のとおり、メランコリーは、ジャスティンの鬱状態を象徴している。ただし、映画の中で、ジャスティンが鬱病だとか鬱だとかいう話や言葉は一切出てこない。

しかも、タイトルのメランコリアは、もうすぐ地球の脇を通過すると言われている惑星の名称なのである。


といって、この映画は惑星映画や科学的映画ではない。第1部 ジャスティン、第2部 クレア、となっているように、この姉妹の話であり、正確には、この姉妹に象徴される、正常(クレア)と鬱(ジャスティン)の対比的物語であり、そこに憂鬱という名の惑星の接近を絡ませている。


冒頭に、ジャスティンの姿をはじめ、超スローモーションにしたカットがいくつか映される。そこに映るいくつかの映像は、後で本篇にも出てくる。これはジャスティンの心のありかや、ジャスティンとクレアの位置関係を示していると言える。今後の展開を、あらかじめ象徴的に表わしている。

監督自身がかつて、鬱病の治療を受けており、そのときに浮かんだアイデアを元にして作られた作品という。彼を治療したセラピストは、彼にこう語ったという。

「普通の幸せな人々は、悲惨な状況になるとパニックに陥りがちだが、鬱病の人は、地獄に落ちても当然だと思っているから、かえって冷静に行動する」と。


ジャスティンは、自分の結婚披露宴だというのに、通常では考えられない失礼な行動をとっている。人生で最も輝いていいはずの祝福の日に、笑顔が見られるのは初めのころだけだ。

姉夫婦もそれをよくわかっており、丁重で思いやりある行動をとる。トリアー監督らしい演出も見られるが、『アンチクライスト』ほどのエグいシーンはない。


第二部では、ひとりになったジャスティンは、姉夫婦の住むこの宮殿のような自宅に同居しており、もうすぐ惑星メランコリアが地球に接近することで、タイトルに近いテーマが描かれる。惑星メランコリアは、その名のとおり、いわば、憂鬱の象徴でもあり、クレアやジョンは、一人息子レオのこともあり、もし地球に衝突したら…、と心配になる。

一度は確かに、地球の脇を通過するだけであるが、実はメランコリアは、再度地球に向かってきていた。


衝突することが確実となり、クレアは絶望的な悲しみに襲われ取り乱すが、ジャスティンは平然とその事実を受け入れようと、諦めの境地に立ったかのように、落ち着いて行動する。

トリアー監督だからこうした作品になるだろうと予測できれば、決してテーマとして明るくもない映画で、さもありなんという感じなのだが、この映画は惑星の接近という宇宙空間への広がりが家族の話に侵入してきており、宇宙から見るような描写は一つもないのだが、俯瞰したようなシーンも挿入され、後半は外のシーンも多くなり、前作『アンチクライスト』に比べれば、わかりやすく、観ていても呼吸しやすい作品となっている。


惑星メランコリアの接近などいくつかのシーンで、決まって流れるのは、ワグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲である。いわゆるトリスタン和音は、この映画においても充分効果的である。


唯一、撮り方のほとんどが手持ちカメラに依っている。広大な景色や一部空撮を除き、会話シーンの全部が手持ちであり、それを短めにカットしてつないでいる。そのため、どうしても目が疲れる。トリアーの手法だから仕方ないが、長い映画でもあり、けっこう忍耐がいるかもしれない。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。