監督・脚本:ミシェル・アザナヴィシウス、撮影:ギョーム・シフマン、編集:アン=ソフィー・ビオン、ミシェル・アザナヴィシウス、音楽:ルドヴィック・ブールス、主演:ジャン・デュジャルダン、ベレニス・ベジョ、2011年、101分、モノクロ、フランス映画、サイレント、字幕:英語、原題:The Artist
1927年、ジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)は、無性映画の大スターであった。
ある映画のお披露目で、大勢の記者たちやファンに囲まれるなか、そこに来ていたペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)と知り合う。
ペピーもその世界を目指しており、ダンスができることを活かし、エキストラなどの仕事をするうち、ジョージからアドバイスを受け、右頬につけぼくろをする。
1929年になると、人々はトーキー映画を望むようになる。ジョージの属する会社もトーキーを作るようになるが、ジョージはアーティストとしての誇りから会社の方針には反対し、独立して映画をつくり、監督兼主演を務めて、無性映画をつくる。
同じころペピーはすでに人気女優となっており、ジョージの映画とペピー主演のトーキーとは、偶然にも同じ日に封切られることになってしまった。
ジョージの映画館は閑散としていたが、隣のペピーの映画は行列を作っていた。
やがて1931年になると、ジョージは大きな屋敷から出て、小さな家に移っていた。仕事もなく、持ち物の骨董品や絵画をオークションに出すまでに落ちぶれてしまっていたのだ。・・・・・・
無声映画を再現しているので、セリフはほとんどない。
アカデミー作品賞に値するかどうかは別として、やや退屈でありながら、一篇の物語として、脚本がわかりやすく、横道へ逸れず、内容は理解しやすい。エンタメ性も忘れておらず、ほどほどに楽しめる。繊細な表現もあるので、セリフがないだけに、表情やしぐさでの演技で見せる映画である。
『イヴの総て』(1950年)のイヴは野心家であり、大女優マーゴを踏み台に、演劇界でのし上がっていくが、ペギーは著名な女優になったあとも、世話になったジョージとの出会いや、ジョージへの恩とやさしさを忘れず、この徹頭徹尾、性善説から描かれたこの映画は、まことにどこに出しても恥ずかしくない映画となっている。
それだけに、あえて今なぜ白黒か、ということより以前に、教養映画的色彩が強く、いかにも文部省推薦映画のようであり、学校での芸術鑑賞に向いているような映画でもあり、映画本来のカメラワーク、カットや編集の遊びが限られ、またほとんどが無声で音楽が入るだけなのでセリフの抑揚やアクセントなど生の声が聞かれないため、いたしかたないことだが、スクリーンから匂ってくるべき肉の暖かみが伝わってこない。
本物の無声映画である例えばチャップリンの『街の灯』(1931年)にも通じるような味わいもたしかにある。一文無しの浮浪者が、目の見えない娘に惚れて、滑稽ながらも何とか金を工面し、手術の費用を娘に渡して去っていく。だいぶ経って、目の見えるようになった娘は、街角で花屋をやっていた。浮浪者がそこを通ったとき、気の毒に思い、一輪の花を上げるのだが、そのとき娘は浮浪者の手に触れ、この人が私を助けてくれた人なんだ、とわかり、そこで映画はぱっと終わる。
こんな感動作はめったにない。
こういう作品に比べるのは酷かもしれないが、『街の灯』のような、二人の登場人物のキャラクター描写や生活感、ものの考え方などは、本作品にはほとんど出てこない。それらしきものがあるとすれば、それぞれの住まいやその変化、ジョージと険悪になり、去っていく妻くらいである。ジョージがなぜ無声にこだわるかも語られず、ペピーが一人の娘から女優の仕事に就く苦労、そのプロセスでの葛藤やら楽しさなども描かれない。
もっぱら、ジョージに出会ってこの道が開けてうまくいき、今となってはジョージに恩を返すべく、オークションの出品も全部購入するなど、ジョージとの関連でしか描かれていない。
乾いた喉に、さらりと流されたサイダーのような爽快感はあるが、深まりゆくものはないので、それを期待する向きには、時間の退屈より、作品としての退屈さ、すなわち陳腐さを、感じてしまうのではないか。
主演二人はもともとパリで活躍していた人であり、監督とベレニス・ベジョは夫婦である。アイデア勝負といった作品であり、アカデミーで騒がれなければ、あまり注目はされなかっただろう。
ジョージにいつも寄り添う犬は、常に名演技を見せてくれる。ジョージの付き人兼運転手の背の高い老人(クリフトン、ジェームズ・クロムウェル)も、いい味を出している。
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