監督:ヤーノシュ・サース、 原作:アゴタ・クリストフ、脚本:アンドラーシュ・セケール、ヤーノシュ・サース、撮影:クリスティアン・ベルガー、編集:シルビア・ルセヴ、音楽:ヨハン・ヨハンソン、主演:アンドラーシュ・ギーマント、ラースロー・ギーマント(双子)、2013年、111分、ドイツ・ハンガリー合作、ハンガリー語、原題:A nagy füzet(分厚い冊子)
1944年8月、ハンガリーの田舎町が舞台。
ドイツ軍の空襲が激しくなってきたため、双子の少年の母親は、彼女の母親の住む田舎に、二人を疎開させる。父親は軍人として家を出る。
双子にとっては祖母に当たる老婆であるが、娘とはほとんど交流のなかったせいか、双子の母を口汚く罵り、双子たちにも辛く当たる。
それでも双子は、野良仕事をして祖母の手伝いをしながら、そこで生きていくしかなかった。・・・・・・
原作はフランス語の『Le Grand Cahier』(1986年)であるが、アゴタ・クリストフはハンガリー生まれ。監督がハンガリー人であり、言語もハンガリー語だ。
撮影のクリスティアン・ベルガーは、ミヒャエル・ハネケ監督の『ピアニスト』(2001年)『隠された記憶』(2005年)『白いリボン』(2009年)を撮っている。室内の陰影、顔に当たる光と影など、光線と陰影を撮るのがうまい名匠だ。
この映画には(原作同様)、固有名詞が一切出てこない。
双子の名前はもちろん、父、母、祖母、双子が出会う人々にも、名前がない。地名も出てこない。ドイツ軍の来襲とハンガリー語からして、ハンガリーのどこかの村であり、第二大戦下という背景があることがわかる。
映画では、1944年8月14日という日付が出てくる。
父親は、自身が戦地に赴き、息子たちが疎開するので、親と離れている間、しっかり勉強することなどに加え、あることを約束させた。
まだ何も書いてない日記帳を双子に渡し、疎開先での出来事を、事実の記録として、すべて日記に書いて残しておくように、と言ったのだ。
これが、この映画の内容そのものであり、双子の書くのは、想像や感想や夢ではない。すべて、見聞きし経験した「事実」だけを書くことになったのである。
翻訳当初からの邦題は、大きな誤解を生むだろう。「悪童日記」ではなく、多少意訳してでも、すなおにそのまま「大きな日記帳」くらいにすべきであった。
そもそも、ここに「悪童」は出てこない。
悪さはするのだが、それは双子の置かれた環境や周囲の人々の影響のなせるわざであり、映画のシナリオの上では、決して悪くはないのだ。
ストーリー自体は淡々と進んでいく。
双子初め、登場人物の誰も、笑うシーンがない。だからといって、神経質にシリアスな映画でも、思索的哲学的な内容とも言えない。
それはただひたすら、徹底的に「事実」のみが描写されているためだ。これはいいこと、これはよくないこと、といった判断は、視聴者が加えるだけで、映画のなかでは、双子がまっすぐに生きているだけなのである。
お説教めいた話でもなく、反戦を主張するような話でもなく、ただ「事実」が並べられていく。
といって、飽きはこない。これはすなわち、双子の少年の語りと視線に、視聴者が同一化させられるからである。
少年たちは、何とか必死に生きている。必死に生きている日々に、退屈や飽きはこないのだ。
この双子の少年は一卵性双生児でそっくりだが、よく見ればもちろん微妙に違っている。どちらが兄か弟かは不明だが、それはどうでもいいのだ。
この映画では、内容柄、特に少年たちの目の力が必要である。
監督は、澄んだ目でありながら、いろいろな表現のできる目をもち、多少賢さを感じる素朴な感じの、しかも双子の美少年を、半年かけて探したという。
数回出てくるドイツ軍将校は同性愛者であり、映画として、美少年は必要条件だったろう。
この双子の少年が主役であり、常にスクリーンに映っており、ほとんど彼らのキャスティングで、良し悪しが決まるのだから、当然の苦労だったろう。そして映画は成功した。
もうひとり印象に残るのは、双子の祖母役の女優(ピロシュカ・モルナール)だ。舞台劇出身で、1945年生まれだから、撮影当時68歳だ。その巨体と顔つきは、まるで意地悪婆さんそのものであるが、原作でもこの祖母は「魔女」と呼ばれている。
ラストで、双子は初めて、異なった道を歩み始める。
双子にとって、別々にされるのがいちばん寂しい、という語りがあった。
今やもう、寂しくはなくなったということだ。
この映画を観て、ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』(2003年)を思い出した。
事実を並べていくだけのつくりで、しかも、時間を重複させて撮られた作品だ。
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