映画 『殺しのドレス』

監督・脚本:ブライアン・デ・パルマ、撮影:ラルフ・ボード、編集:ジェリー・グリーンバーグ、音楽:ピノ・ドナッジオ、主演:ナンシー・アレン、マイケル・ケイン、アンジー・ディキンソン、1980年、105分、原題:Dressed to Kill


ケイト・ミラー(アンジー・ディキンソン)は夫がありながら性的に不満で、美術館で出会った男と、男のマンションで交渉をもつ。男が寝ている間に、机の引き出しにある書類から、男の秘密を知り、慌ててそのへやを後にするが、指輪を忘れたことを思い出し、エレベーターで戻るのだが、・・・・・・


『ボディ・ダブル』(1984年)『アンタッチャブル』(1987年)などで有名になるブライアン・デ・パルマの作品で、ヒッチコックの『サイコ』(1960年)をモデルにしていると言われている。


『サイコ』は、シャワールームでの殺人であるが、こちらはエレベーター内の殺人である。また、前者は故意にモノクロで撮られているが、パルマの作品はみなカラーで、彼の作品の特徴のひとつに、必ず真っ赤な血を見る、というのがある。これは『アンタッチャブル』でも同じで、タッチャブルというエレベーター内の文字は血文字であった。


この『殺しのドレス』は、『サイコ』のように、前置きがあり、ストーリー上も精神異常をきちんと描きながら不気味な展開をみせるのと違い、こちらはあまりストーリー上の緻密さはなく、話の内容も深まるものでも知的なものでもなく、ただひたすら、映像として、エンタメ性をもって、我々の前に差し出される。

静かに舐めるように動くカメラは優雅であるが、一旦コトが起こると、カメラワークはバラエティに富み、テキパキとしてカットと処理がなされ、ストーリー上の穴などはむしろどうでもよくなるくらい、観客を引きずり込んでこれる。


『サイコ』のジャネット・リー同様、アンジー・ディキンソンも、その登場は殺されるまでであり、この映画の主役は、後半からナンシー・アレンに替わるのだ。

主役が途中から入れ替わるというのは、当時も今も珍しく、最後まで登場しないのに主役であるということで所属事務所がOKしないと、出演交渉はまとまらないだろう。


マリリン・モンローの本格的なデビュー作『ナイアガラ』(1953年)も、モンロー演ずるローズは中盤で殺され、回想もないが、替わりが出てくることもなかった。こういう場合は、印象や余韻として存在感が続くので、主演俳優もまずまずなのである。


こういうわけで、カメラワークや細やかな撮影上の演出や工夫が盛りだくさんで、映画は映像であるという点で、全く問題もなく、実際、大ヒットになった。パルマは、映像としての遊び心を心得た監督なのである。


欲求不満の中年女(但し、きれいな人)、殺人、性的倒錯、予想される第二の殺人、娼婦、機械オタクの少年、とても刑事に見えない刑事、…と、教養映画の正反対をいく内容であり、パルマの作品はおよそ高邁(こうまい)なテーマとほど遠いが、それだけにまた、大衆の最大公約数的関心を知り、観る者の目をスクリーンから離さないという術(すべ)を知っている監督なのだ。


冒頭、甘美なテーマ曲を伴いながら、カメラがゆっくり、居間からバスルームに移動する。手前で夫がヒゲを剃っている、シャワールームのガラス越しに、ケイトが湯を浴びながら好色なまなざしで夫を横に見つつ、石鹸を片手に持ち、自分の体に這(は)わせる。アップになるバストや下半身は、他の女優で撮ったものを編集している。石鹸をピンクの乳首や陰部に這わせたりする。

いきなりこれかよ、と思うが、この冒頭の演出がうまい。


美術館では、例のセリフのないシークエンスが続く。このシーンは監督が以前から撮りたがっていたとのことだ。それだけに、他のシーンもそうなのだが、ありそうでなく、なさそうであるような、不安定さが、観る側にとっては映画的快感として伝わってくるのである。


映像で見せる映画は、かくのごとく、こう書いていても、読んでいる側はつまらないだろうと思う。難しい内容では全くないので、時間のある方はご覧になるといいでしょう。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。