監督:ジョルジュ・フランジュ、脚本:ピエール・ボワロー、トーマス・ナルスジャック、ジャン・ルドン、クロード・ソーテ、撮影:ユージェン・シュフタン、音楽:モーリス・ジャール、主演:ピエール・ブラッスール、アリダ・ヴァリ、エディット・スコブ、1959年製作・1960年1月公開、88分、仏伊合作、モノクロ、原題:Les Yeux sans visage(Eyes Without a Face)
医師ジェネシエ(ピエール・ブラッスール)は皮膚移植の権威であるが、交通事故で、顔の両目以外の部分を損傷した娘クリスチアヌ(エディット・スコブ)のために、同い年くらいの同じような容貌の娘を、助手のルイーズ(アリダ・ヴァリ)に誘拐させては、自宅に連れて来させ、地下にある手術室で、ルイーズとともに、クリスチアヌに移植手術を施している。
この2回目の手術でクリスチアヌは美しい素顔を見せるが、それも実は失敗したことがわかると、ジェネシエは第三の犠牲者を探すことにする。・・・・・・
ホラー映画監督の黒沢清が賞賛するように、まさにフランスでヌーベル・ヴァーグがもてはやされていた同時期に、実はこんな作品がひっそりと作られていたことは注目されてよい。このささやかな作品は、その後、サスペンスやホラーなどのジャンルに、大きな影響を与えたからだ。
白黒であるから、ライティングと影をうまく使うのは当然と言えるが、ストーリーの展開も一定の速度を保ち、省けるところは省くなど、シーンやセリフも最低限となっていて見やすくなっている。
顔の移植というと安倍公房の『他人の顔』を思い出すが、小説とは違い、またこの映画のテーマは、顔に関する自我との葛藤などという哲学的課題には、全く関知していない。
もっぱら、失った娘の顔を取り戻そうとする父親の執着心と、それを受動的に受け入れながらも自家撞着に陥る娘本人の物語としてのみ描かれている。
手術台で眠らされている被害者の顔に、鉛筆で線を書き入れたり、メスで皮膚を切って鉗子で押さえ、その後それを剥がすシーンまで入るが、それほど生々しさが感じられず、手術シーンも二体目のこのシーンだけである。
クリスチアヌは登場しても、初めは後ろ姿だけしか映さない。ルイーズが持ってきた仮面をかぶると、ようやく顔が映される。まるで『犬神家の一族』の助清のようであるが、こちらは少女であり、仮面の姿そのものもかわいらしく美しくみえてしまう。
手術のあと素顔を表わすが、もともとそのような容姿の少女のせいか、仮面をつけていたときと全く同じ顔である。目の大きなかわいらしい顔つきではあるが、黙っているとそのかわいらしさは、どこかまた不気味である。
クリスチアヌが自宅の大きな屋敷の階段や地下の通路を歩くときなど、大きな空間や高い天井に対して、仮面をつけたクリスチアヌが、はかない存在に感じられ、痛々しくもあり不気味でもあり、あるいはまた、いとおしくもあり、これらクリスチアヌの無言のシーンは、サスペンス・ホラーというより、実に芸術性が高い。
ジェネシエが行なっていることは、所詮犯罪であり、結果的には帳尻を合わせて終わるが、クリスチアヌだけは生き残る。
クリスチアヌは手術するたびに失敗することで落胆していたが、やがては、よその娘を犠牲にしてまで手術を受けること自体に嫌気がさし、最後は、父親の手先となっているルイーズを殺してしまう。
地下に飼っている何頭もの愛犬を檻から出すと、犬たちは、ちょうど帰宅した父ジェヌシエを襲って噛みつく。
クリスチアヌは、犬たちとともに飼われていた白い鳩も放す。父親が横たわるわきを、平然と真っ暗な木々のほうへ向かってさまよい歩く。周囲には鳥たちが飛び交っている。
このラストシーンは、物悲しいと同時に、映画ならではのメルヘンであり、サスペンス調の映画のラストシーンとしては異色である。こういうラストはあまり見たことがない。
当時『リラの門』(1957年)などで有名となるフランス映画界の重鎮ピエール・ブラッスールに加え、ルイーズ役のアリダ・ヴァリは『第三の男』(1949年)や『かくも長き不在』(1961年)で有名であり、先日の『カサンドラ・クロス』(1976年)にも老眼鏡をかけた老婦人の役で出ていた。
クリスチアヌ役のエディット・スコブという女優は初めて見たが、今なお現役のようである。とにかく彼女は愛らしくかわいい。美人系統ではないかもしれないが、目が大きく青く、全体にほっそりと小作りで、この女優なくしては、この映画は成立しなかっただろう。
実際、この子の顔をテーマとした映画だからである。この容姿の娘で、自分が皮膚移植の専門医なら、やってみたくなるという気がする。
顔の移植にまつわるサスペンス調の映画でありながら、常に三拍子のBGMも手伝ってか、観終わっても、どこかすがすがしささえ感じる異色作だ。
0コメント