監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ、撮影:ダリウス・コンジ、主演:ナオミ・ワッツ、ティム・ロス、2007年、111分、原題:Funny Games U.S.(原題はU.S.A.ではない。)
今まで日記にした『ピアニスト』『隠された記憶』のミヒャエル・ハネケが、1997年製作の『ファニーゲーム』(オーストリア映画、108分)を、ハリウッドでセルフリメイクした作品。製作にナオミ・ワッツも加わっている。内容は、1997年版とほとんど同じである。
ジョージ(ティム・ロス)とアン(ナオミ・ワッツ)夫婦は息子のジョージー(デヴォン・ギアハート)とともに別荘を訪れる。その直後、先ほど見かけた隣人の家にいた二人の若い男、ポール(マイケル・ピット)とピーター(ブラディ・コーベット)が訪ねてくる。
きっかけは卵をもらいたいというものだったが、口のきき方を注意してジョージがポールをひっぱたくと、逆にジョージはゴルフクラブで脚を殴られ倒れ込んでしまう。そして、残忍でおぞましいポールらによる死のゲームが始まる。・・・・・・
夫婦は、音楽の名前当てを楽しみながら、ボートを引いた車で、高速道路を別荘に向かっている。
ヘンデルの楽曲が流れるファーストシーンにヘビメタがかぶさってタイトルが流れ、その後を暗示させる。
モーツァルトの室内楽に導かれ、犬を追う撮りかたで豪華な別荘の空間を映し出す。やがてその一室が修羅場と化する。
白づくめの服装に手袋をした、どこかアメリカのKKKを想起させるようないでたちの、さほど愚かとも思えない風采の若い男二人が、屁理屈をこね回したうえ居座り、殺しのファニーゲームが始まる。手袋は指紋を残さないためであろう。
訪問のきっかけは卵をもらえないかというもので、昔の日本なら、ちょっとお味噌をいただけませんか、という感じで、間が抜けていながら、日常の文脈で始まる。親しい隣人の頼みということで、アンは言われるままに応じる。
若い男二人は居座りはするものの、今までの映画によくあるように、金が目的の強盗ではなく、自分たち流の身勝手な殺人ゲームを楽しむためなのだ。
手段は卑劣を極め、おぞましく、居座られた家族に一点の救いもなく、悪が成敗されることもなく、さらにこの悪行が続くことを暗示して終わる。
内容的にはヘドをかけたくなるような映画だが、映画のつくりとしては、映画制作の基本から逸脱せず、その範囲のなかで試行錯誤を繰り返している。
アップの多用、キッチンなど奥行きをとっての設定、長回し、逆回しなどは標準的であるが、残忍な現場の瞬間そのものを見せないという演出は個性的だ。
戦闘シーン以外で、流れる血を効果的に見せるのは、ほとんど映像の真髄ともいえるが、それさえも見せないのは勇気のいることだ。テレビや壁に散った血の跡を見せるくらいだ。
そうしたシーンは出来事の音で間違いなく再現されうることを証明している。
ある意味、ひと幕モノは飽きがくる危険があり、途中までは舞台で可能なシーンばかりなのでどうかなと思っていたが、子供を一旦外に逃亡させて正解だ。
母親に服を脱がせるシーンではその裸身を見せない。殺しの瞬間のように、わざと見せなかっただけではなく、映画自体はがそちら(エロ)に関心はなく、それもゲームの一環に過ぎないからだ。
この映画には、このシーンのように、ゲーム以外に関心をもたせないというスタンスがある。ラストも同様だが、ポールがたまに、観客に向けたカメラ目線で話す。
観客には、流れる血や女の裸やこの家族の社会的地位などに目を向けさせず、自分たちと同じ立場で見てくれという露骨な演出だ。
ヨットで交わす男二人の会話に、現実と虚構について語らせるが、これは脚本も書いたこの監督の考えそのものなのだろう。それは特に変わった考え方ではない。
殺害シーンもなくセックスシーンもないのに、とても学校では上映できないような内容だが、映画というジャンルでの挑戦としてはアリと思う。
それにしても、現実にも類似の事件は起きたのであり、日本では、大阪の三菱銀行北畠支店の立てこもり事件などは有名で、凄惨をきわめた。銀行強盗でなく銀行に居座ってゲームを楽しんだからである。ちなみにこの事件は『TATTOO<刺青>あり』(1982年)というタイトルで映画化され、タトゥーという語が広まるきっかけになった。
ハネケはなぜ、こんな映画をつくったのか。ここでは割愛するが、彼一流の映画理論を披露したかったのだろうと思われる。そのためには、こんな内容の映画を撮らざるをえなかったのである。
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