監督・原案:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、脚本:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、アルマンド・ボー、ニコラス・ヒアコボーネ、撮影:ロドリゴ・プリエト、編集:スティーヴン・ミリオン、音楽:グスターボ・サンタオラヤ、主演:ハビエル・バルデム、2010年、148分、メキシコ・スペイン合作、メキシコ映画、スペイン語、原題:BIUTIFUL
監督は『21グラム』(2003年)『バベル』(2006年)のメキシコの映画監督、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。最近では、レオナルド・ディカプリオ主演の『レヴェナント: 蘇えりし者』(2015年)がある。
映画館で観れなかったが、DVDでも問題なし。映像的迫力とは無関係の映画。
ウスバル(ハビエル・バルデム)は、バルセロナの街で、さまざまな律儀でない仕事をして生活費を稼いでいる。ヤミ市の場所取りで黒人の売人たちが捕まらないように警官にカネを渡したり、不法滞在の若い中国人らの仕事を斡旋したり、霊媒師のように葬式に行って最後に死者が残した言葉を遺族に伝えたりするなど、どれもまっとうな仕事ではなく、こんな社会の底辺を座標に上げて初めて成立する生業(なりわい)ばかりだ。
ウスバルには小学生の娘と息子がいるが、母親はたまに帰ってくればまた夫婦喧嘩をして別れ、また会えば四人で食事をするなど、夫婦間は不安定である。しかも、彼はすでに癌に侵されており、余命二か月と知り、できる限りのことをしていく。・・・・・・
テーマがとにかく暗い。仕事が順調でハッピーな日常を送っている人間が癌になって後始末を始める物語ではなく、彼の生きている社会や背景、公私にわたる生活のすべてが暗く、重たいのだ。音楽はほとんどなく、カメラはほとんど手持ちカメラでアップも多く、観るのに忍耐が要る。なぜこのような作品を映画にしたかったのか不思議であり、それをまた148分の長さで完成としたことに、皮肉交じりに驚嘆してしまう。
映画エンターテイメントとは全く一線を画する作品だ。同じ長尺の作品『バベル』と比べても、この長さにする意味は不明だし、ストーリー的な広がりもなく、内心への深まりもない。いわば、ウスバルの二か月を追ったドキュメンタリーのような作品だ。
ウスバルというひとりの中年男は、不治の病気をかかえながら、家族や兄や仕事仲間などにそれを話すのかといえば、話さない。話してどうなるものでもなく、ギリギリ最後で、娘には知られる程度だ。話してどうなるものかと逡巡するヒマもなく、事態が次から次へと変化し、事件も次々に起こる。
それらを対処するためと、自らの生活や、心理的に不安定な妻の相手に向き合うだっけで、精いっぱいなのだ。
そういうわけで、余命二か月とわかっても、ヤケを起こすでもなく、次々に解決しなければならない事態に対処していく。ウスバルはどこまでも誠実で優しい。言葉の優しさに終わらず、現実的にその人のために動くのだ。しかしそれは相手には通用せず、相手の都合で、簡単に裏切られてしまうこともしばしばである。
闇商売に深入りしながら、ウスバルは悪びれることもなく、その置かれた環境のなかで、何とかもがき続け、ラストに死が暗示される。
ヤミ市の若い黒人はセネガルからの出稼ぎで、結局商売ができなくなると、妻と赤ちゃんを置いて帰ってしまう。本国に帰ってもロクな生活ができないからだ。ウスバルはその母と赤ん坊を引き取り、安いアパートに住まわす。妻に愛想を尽かしたウスバルが、二人の子供をだらしないその母親から引き離し、ここにいっしょに住むことになる。
冒頭に、ベッドに横たわる娘とウスバルの会話がある。やがて、空想の世界で雪に覆われた林が映され、そこに、今のウスバルと若くして死んだ父親が若い姿のまま、向き合って会話する。これはラストシーンにつながるのだが、ウスバルがほほえむのは、このシーン以外にも数カ所だけだ。ラストでは若い父親とウスバルは、画面右手に消えていく。
たまにバルセロナの街並みが映るが、そんな光景や夜景とは裏腹に、ウスバルの周辺は絶えず落ち着かず、貧乏であり、薄暗く、汚れている。この映画に、美しい、と言われるような映像はほとんどない。娘に、自分の父親の形見である指輪を渡し、雪の林から立ち去るとき、そこにしか美しさらしきものなど発見できないのである。
観客に、「ビューティフル」の意味合いを考えさせようという意図があるのか。
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