監督:トニー・リチャードソン、原案:ジャン・ジュネ、脚本:マルグリット・デュラス、撮影:デヴィッド・ワトキン、編集:ソフィー・クッサン、アントニー・ギブス、音楽:アントワーヌ・デュアメル、主演:ジャンヌ・モロー、エットレ・マンニ、キース・スキナー、1966年、103分、モノクロ、英仏合作、原題:Mademoiselle
イギリス映画だが話されるのはフランス語とイタリア語。フランス語に近い発音ならマドモワゼルだ。
これも観たいと思いながら、なかなかDVDが出ていなかった映画である。
20世紀フォックスからリクエスト・ライブラリーとして出た第5弾のなかの一つであった。皆様の絶大なリクエストによりついにDVD化、とある。埋もれた作品でも、よいものはよいとして、多くの人がリクエストすると製品化するのだなあ。ただやはり、大手だからできることだろう。
始まるとすぐ、黒い網の手袋をしてきれいなハイヒールを履いた女(ジャンヌ・モロー)が、水門のハンドルを回すシーンとなる。そこにタイトルが出る。この女は周囲からマドモアゼル呼ばれているだけで、名前は出てこない。そのフランスの農村にある小さな村では、不審な放火事件も起きていた。
水門からあふれ出した大量の水は、村の農家に流れ込み、家畜が溺れそうになるが、村人たちが気づき、家畜を助け出す。火事のとき同様、この現場で大活躍するのはマヌー(エットレ・マンニ)というイタリア人であった。マヌーはブルーノ(キース・スキナー)という息子とマヌーの友人アントニオ(ウンベルト・オルシーニ)とで暮らしていた。マヌーたちは出稼ぎのイタリア人というだけで、村人たちからはよそ者扱いされていた。
マドモアゼルはブルーノらの学校の教師でもあり、警察でタイプを打つ仕事もしていた。田舎町に不釣り合いな、いかにもパリジェンヌ風の女は、ひとり者で、邪悪な心をもち、ウズラの卵をつぶしたり、咲いている花にタバコの火を押しつけたりするなど、自らの心の飢えを、悪事をおこなうことで埋めているのであった。
火を消したり家具を持ち出したりと、力強く火事場で大活躍しているマヌーを見て、逆恨みを覚え、学校では息子のブルーノに当たり散らし、差別的な暴言を吐くが、一方では、木こりであるマヌーの野性的なたくましさに憧れ、男の匂いにほだされていた。・・・・・・
原作がジャン・ジュネであり、底意地の悪さや背徳を描いた作品で、ジャンヌ・モローは存在感たっぷりに、表向きは聖女を装うが、実は裏では意地の悪い不謹慎な女を、みごとに演じている。
今回あらためて気付いたのは、やはりカメラである。動きは平凡であるが、フレーム内の俳優の位置が凝っている。また、カットとカットのつなぎにおもしろいところがある。奥行きある遠景でいったあと、どアップをつなぐというのも、なにげない編集だがなかなかやらない方法だ。
演技に対する演出も、よく効いている。マドモアゼルが森の中の小道でマヌーと出会う。マヌーは腰に巻いていた蛇をつかみ、怖くないから触ってみろと言う。マドモアゼルがおそるおそる触るうち、そのヘビがマヌーの手からマドモアゼルの手へと絡む。
かなり突っ込んだエロティシズムの表現もある。マヌーの腋の下の毛や汗をアップにしたり、森のなかで二人が戯れるうち、マドモアゼルはマヌーの履く靴に頬をなでつけたり、マヌーのネックレスが口に入るとそこにマヌーは唾をはきキスをしたり、翌朝寝ているマヌーの髭づらや鼻にマドモアゼルは舌を這わすなど、だ。
結局、マヌーは村人たちに殺され、ブルーノはよそへ行き、マドモアゼルは迎えに来た車に乗って村人から感謝されて村を出ていく。車に乗ったマドモアゼルに、遠くからブルーノが唾を吐くのが象徴的である。
よく観ているとわかるのだが、ブルーノは放火の犯人がマドモアゼルだということを知っている。しかもその証拠の紙切れを燃やしてしまう。あれだけひどい仕打ちをされながら、ブルーノはマドモアゼルに恋に似た感情をもっている。
蛇のシーンからやや長めの回想が挟まれるが、マヌーを知らぬ以前は、マドモアゼルはブルーノを隣に座らせ、丁寧に勉強を教えていたのである。ブルーノはマドモアゼルがちょっと席を立ったときに、そのハンカチを盗んでしまう。
そのちょっと立ったときマドモアゼルが窓の下に何気なく見たものは、マヌーがよその女とじゃれている姿であった。
ブルーノが放火犯を口にせず、ラストでマドモアゼルに唾を吐くのは、少年らしい心境の表われであろう。
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