映画 『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』

監督:若松孝二、脚本:掛川正幸・若松孝二、撮影:辻智彦、編集:坂本久美子、音楽:板橋文夫、主演:井浦新、満島真之介、寺島しのぶ、2011年、119分。

かつて、きわどい邦画上映で有名なテアトル新宿にて鑑賞した。


誰もが観てわかることは、かなり低予算の映画である。大物監督だからもうちょっと予算を組めるのだろうが、一般向けでもないということで、こじんまりした予算で作らざるをえなかったのだろう。或いは、豪華な映画にすると、かえって三島や森田の心理を描ききれないとでも思ったのだろうか。


昭和45年11月25日に、三島以下5人の楯の会のメンバーが、市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地に乗り込み、三島由紀夫(井浦新)と森田必勝(満島真之介)が自決するまでを、三島の信念と、三島に傾倒していった森田の心理的葛藤を交えながら描いた作品。


誰もが知っている出来事であり、誰もが映画化したい出来事であったろう。

映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を観ても、現実があまりに記憶に鮮明に残っているがために、映画という全くの虚構芸術と、ドキュメンタリーとの、どのへんに線を引いて映像化するかによって、製作姿勢と映画としてのよしあしが決まってくる。


三島由紀夫を演じた井浦新、森田必勝を演じた満島真之介に、演技不足はなく、よくやっていたと思う。音楽をほとんど使わず、会話シーンを中心に進めた脚本、むやみに凝った撮り方をせずアップを多用した映像、落ち着いたカメラワークなど、特に問題もなかったようだ。


予算を使ってエキストラなどを大量動員しないため、例えば、三島がバルコニーから演説するシーンは、下から三島をとらえたカットの連続で、そこに当時のニュース映像、下から演説を見上げる隊員や警察官のカットを挿入するくらいなのである。それはかえって、演説中の三島の心理の動きを表わすともとれるが、舞台芝居のようになってしまい、最期を遂げる直前の三島の必死の姿だけが浮いてしまったようにも感じる。ここはこの映画の圧巻ともなるシーンゆえ、事実三島の演説はひとり宙に浮いたような状態であったから、それはそれで狙っていたのかもしれない。


三島の信念とは、左翼の動きは彼にしてみれば思想上の敵であり、日本を守り真の姿に戻すには、自衛隊が決起して左翼を倒さなければならないというものである。それに対し現実的には、いくつかの大きな左翼による暴動がありながら、それを警察の手だけで抑え、自衛隊が一切出動しなかったことについての絶望がある。


日本をあらぬ姿にしようとする勢力との思想的戦いには、国軍たる自衛隊の出動が当然なのであり、単に法律違反として法で取り締まる警察の力だけで暴動が鎮圧されたことに、三島は深く失望する。そして自衛隊を頼みとしてそれに連動して動く予定の楯の会は、ついぞその出番を失い、存在意義さえ危うくなってしまった。


三島は逡巡するが、森田はある段階で必ず楯の会が決起する必要があり、それによってのみ彼らの意志が、後に続く者に伝わるとして、三島に迫る。

こうして、総監室に乱入しても、三島と森田以外は生きて残ることになる。


これらの経緯は、どうしてもセリフでしか伝わらないものであるから、会話劇になってしまうのもしかたないかと思う。ただ、それでもなお、映画として映像として、もっとおもしろい展開もできたのではないかなとも思うが、ムリな要求だろうか。


一本調子な脚本は、これもまた内容からしてやむを得ないかとも思うが、森田の心理的葛藤やとまどいから、やがて三島に付いていくという固い決意をするまでのあたりに、話を膨らませることができたように思う。

三島自身についても、たしかに思想家たる部分を拡大したのはわかるが、自決の日まで文章は書いていたのであり、それを、原稿用紙の最後のページだけ映しただけというのは雑な気がする。


これだけの素材であるからには、もっとストーリーに厚みがほしかったし、演出を効かせてもほしかった。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。