映画 『ゆりかごを揺らす手』

監督:カーティス・ハンソン、脚本:アマンダ・シルヴァー、撮影:ロバート・エルスウィット、編集:ジョン・F・リンク、音楽:グレーム・レヴェル、主演:レベッカ・デ・モーネイ、アナベラ・シオラ、1992年、110分、原題:The Hand That Rocks the Cradle


マイケル(マット・マッコイ)の妻クレア(アナベラ・シオラ)は、二人めの子を妊娠し三ヶ月だったが、定期検査に行った産科の医師モットの診察に疑問を感じ、猥褻のかどで警察に訴えたところ、似たような患者がたくさん現れ、モットは自殺してしまう。

モット夫人のペイトン・フランダー(レベッカ・デ・モーネイ)は初めての子を妊娠していたが、夫の自殺によりショックで死産してしまい、子宮も摘出し、子を産めないからだになってしまう。


半年後、マイケル夫妻には男児ジョーが誕生しており、そこにベビーシッターとして、モットの妻がペイトンと名乗り現れ、たくみに取り入って、夫妻の家に住み込むことになる。

自分の身の上に起きた不幸で、クレアを逆恨みしているペイトンは、徐々にクレアに復讐を始める。・・・・・・


有名サスペンス映画群のなかに、埋もれてしまっているのは何とも惜しい。

美人悪女もののサスペンスで、日本にないベビーシッターの制度を、そういうものと思えば、それほど違和感はない。


『暴走機関車』のあとの出演となったレベッカ・デ・モーネイの演技がすばらしいが、やはり、脚本が帳尻を合わせ、わかりやすくきちんと書かれているのが成功の秘訣だろう。


オープニングに、豪華な邸宅街を走る自転車が映る。自転車は後ろに荷物を引いており、こぎ手はフードをかぶっている。何か起きそうな雰囲気を漂わせながら、そのまま冒頭につながるが、その自転車の男は、少し頭の弱い黒人ソロモン(アーニー・ハドソン)で、福祉協会から、マイケルの家のフェンスを修理するのに派遣されてきたのだった。荷物は大工道具だった。

まさにこのソロモンとフェンスが、ラストで意味をもつのだ。

 

ペイトンは知恵の及ぶかぎりの意地悪い逆恨みを実行するが、そのプロセスが途切れることなく、サスペンスの持続力は強い。

クレアが喘息もちであることや、マイケルの初恋の相手が、マイケルの友人の妻マリーン(ジュリアン・ムーア)であることなど、クレアに不利になる要素をとことん生かして、ペイトンは陰険な復讐をしかけていく。


レベッカ・デ・モーネイ32歳、アナベラ・シオラ27歳であり、その年齢そのままの役だろう。

ペイトンは復讐をしつつも、マイケル夫婦のなかむつまじいようすを見れば、嫉妬の裏に、夫婦円満の憧れをいだき、マイケル夫婦の長女エマには母親のように接するが、それも逆恨みと同時に母性の自然な発露でもある。ジョーには、夫婦がいないときに、逆恨みとして自ら母乳を吸わせるが、これもまた、母としての気持ちの現れでもある。

これは、ラスト近くペイトンがエマに、あなたたちは私の家族、などと言うところからも、うかがえる。


レベッカ・デ・モーネイは最初、濃いメイクをし、髪を上げたブルーのスーツ姿で登場する。ベビーシッターとして入り込んでからは軽装となり、いかにもベビーシッターとしてテキパキ働きながら悪事を企み、実行する。

ラストでは、ペイトンの狂気ぶり全開となり、クレアとペイトン、女同士の取っ組み合いも出てくるが、レベッカの恐ろしい形相と暴力は、ラストにふさわしい活躍ぶりだ。


ほとんどがマイケル家邸内のシーンであり、カメラワークもはたらきがよく、退屈させずストーリーを展開させるのに貢献している。

CGや耳障りな効果音などなくても、これだけ<すがすがしい雰囲気>をもたせたままのサスペンスを撮ることができるという、証明のような作品だ。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。