映画 『フルメタル・ジャケット』

監督:スタンリー・キューブリック、原作:グスタフ・ハスフォード『ショート・タイマーズ』、脚本:スタンリー・キューブリック、マイケル・ハー、グスタフ・ハスフォード、撮影:ダグラス・ミルサム、編集:マーティン・ハンター、音楽:アビゲール・ミード(=キューブリックの娘ヴィヴィアン・キューブリック)、主演:マシュー・モディーン、ヴィンセント・ドノフリオ、R・リー・アーメイ、1987年、116分、アメリカ映画、原題:Full Metal Jacket


キューブリックにとって『突撃』(1957年)と並ぶ戦争映画には違いないが、キューブリックの個性が丸出しの作品ということを痛感させられる。


タイトルロールに、羊の毛を刈るように若い男たちが頭を丸める姿が次から次へと映され、やがて兵士の卵たちの厳しい日常と猛訓練のようすが描かれ、後半ではベトナムでの第一線の兵士の姿が、主にジョーカー(マシュー・モディーン)という、リポーターを主任務とする兵士を中心に、仲間との再会、戦闘、仲間の死などの挿話をはさみながら進んでいく。

ここにキューブリックの賭けがあるように思う。メインが訓練で戦地へ向かうのを暗示するのではなく、メインが戦地で訓練はイントロ程度に扱われるのでもない。


全編をほぼ二等分して、はっきり前半後半に分け、舞台も主要人物も前後に分けて、なおつなぐというのは、映画製作としては危険な賭けであったろう。

その証拠に、前半は盛り上がったのに後半尻すぼみになってつまらない、また、前半退屈だったが後半で巻き返した、という正反対のレビューが見られる。

これはどちらも間違いで、前半は後半のために必要だった重さなのであり、後半からラストまでとのバランスがとれている。

戦争映画の常道を行きたくなかったキューブリックなりのアイデアだったのだろう。同じく常道を避けて失敗したものに『地獄の黙示録』(1979年)がある。


ジョーカーの存在は一貫している。また、現実の戦争では、現地での活躍と同時に新兵の訓練はしているわけだから、主役を置いて舞台を行ったり来たりするのも普通だ。通常はそうしたストーリーであって、そこに厳しい上官がいたり親友がいたり女がからんだり、というのが常道だ。

しかしキューブリックはそうしなかった。しかも女の本格的登場はベトコンのスナイパーという、これでもかという賭けにも出た。


そしてこの、映画全体の枠組みにかかわる賭けに、キューブリックは勝利している。

前半は猥雑な言葉を大声でわめきつづける上官と太った兵士がタテ軸であり、後半は、<その軸上にあったジョーカー>と<ベトコン女>がヨコ軸になる。

この賭けに勝つのを彼は承知していた。あとはキューブリック世界の構築だ。


戦地とはいえ、かなりの金をかけたオープンセット、長回しに長めのショット、効果的な音楽、それぞれの役柄にふさわしい容貌の俳優の起用と徹底した演出、そこに出現する几帳面な構図さばき、・・・

ストーリーを単純化し登場人物をわかりやすく必要最小限に絞っている。やはり、映像の魔術師キューブリックは、映像を見せたかったのだろう。


フレームのなかに、二人いても三人いても、立ち位置から動きかたまで洗練されており、遠く黒煙までもが計算されている。もし「本格的に」この映画が嫌いだという人がいるなら、この、緻密に計算されつくした演出や構図のせいだろう。これはキューブリックの他の映画にも言えることで、これらを嫌いなら、もうそれは趣味の問題としか言いようがない。


戦地では言ってもかなわぬ平和論は、そのとおり言っても仕方がないようなつぶやきに終わらせている。大上段にかまえて、『シャッター・アイランド』(2010年)のように戦争を扱いそこなっていない。

戦時中を生きた若い兵士たちに苦悩があるのは間違いなく、それをジョーカーに語らせてはいるが、むしろ、それも含め、戦時下での若い兵士たちの<ありよう>がテーマであるので、反戦的思考を一部のものとしてあの程度におさえたことも正解だった。だからどうしても前半はあの長さで必要だったのだ。


血しぶきも火柱も映しながら、一枚一枚の絵が美しくきれいに決まっている。戦争の映画であるにもかかわらず、画面に汚れがない。戦時を描きながら、却ってムダを排した洗練された画面に仕上がっています。

『シャイニング』(1980年)のあとの作品だけに、その経験がフルに活かされている。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。