映画 『ジョゼと虎と魚たち』

監督:犬童一心(いぬどう・いっしん)、原作:田辺聖子、脚本:渡辺あや、撮影:蔦井孝洋、編集:上野聡一、音楽:くるり、主題歌:くるり 『ハイウェイ』、主演:妻夫木聡、池脇千鶴、2003年、116分。


何がどうということもないのに、何度も観てしまう。

原作・脚本ともに女性のせいか、日常風景の描写がうまい。

おそらく雰囲気がいいのだと思う。雰囲気だけでつなぐ映画は大方退屈になりがちだ。それを知って、本編全部を回想に閉じ込めるべく、タイトルの前にツネオ(恒夫、妻夫木聡)のナレーションが入る。 


退屈にならないもう一つの努力は、ジョゼ(池脇千鶴)の住まいが細かく撮られていくことだ。家の中のこまごました生活用品がおろそかにされず、このうちの人間のみでなく、観客にも身近な存在になっている。ボタンで目を作られた、つぎはぎだらけのうさぎのぬいぐるみが印象的だ。

学食やナポリタンしか食べないようなツネオが、畳の上で味噌汁や卵焼きをうまいと言って食べるあたりは、ツネオにとって、自身の発見でもあった。

 

設定もよい。麻雀に興じる客たち、坂道、濁った川、居並ぶ平屋の公営住宅、雀荘でアルバイトする学生、一人だけの身内の婆さん…、ジョゼはこの延長線上にある。

これら不均衡が均衡に向かうような存在の延長線上には、健康で五体満足な女の子はあり得なかった。 


へやの中、押し入れの中で、読書による雑学にふけるのみの日常を送っていたジョゼは、ツネオと出会うことで外界を知る。婆さんに連れられて受け身で外を眺めるのとは違い、積極的能動的に外界に出ていく。そして、男としてのツネオという存在にも触れていく。


この映画の好きなシーンに三つある。煮物のシーンだ。ここでジョゼとツネオは、並んだ後ろ姿で撮られ、ジョゼが味見にツネオにレンコンを一口食べさせる。抑制した演出だ。

もう一つは、ジョゼと別れ、ツネオがかなえ(香苗、上野樹里)と歩くシーン。わざと道路のこちら側から、向こう側を歩く二人を望遠で撮り、かなえのセリフもツネオの号泣も車の音にかき消される。

それとやはり海のシーンはいい。海はそれだけでイマージュの元であり、ジョゼのあこがれの場所でもあった。ツネオにおんぶしてもらったジョゼは、ツネオに貝殻を拾わせる。すべて手持ちで撮っていて臨場感がある。

 

別れた理由は、俺から逃げたとツネオ自身が独白する。ジョゼもいつかそうなる日がくることは予想していた。ただ、そうなっても、二度と元の心の棲み家には戻れないことも知っていた。 


よくある恋物語は、本当に物語として過去のものになってしまった。ただ、婆さんの言う、壊れモノには壊れモノの分がある、というセリフそのままに、ジョゼの心の中まで壊れモノのままにはならなかった。壊れモノだった女の子は、海辺の貝殻集めのように、かけらを補って、壊れモノではなくなった。母になりたい女の子は、まずは、女になった。髪型の変化はそれを表しているだろう。 


池脇千鶴は適役で、なりきった演技もうまい。正座したツネオの前で下着をはずしたあとの表情、帰らんといて、と言うときの、髪から垣間見える泣いた横顔がすばらしい。ジョゼの髪の匂いがするシーンだ。そこだけ妻夫木に変わりたいくらいだ。

 

ポケットにしまっておきたいような作品。いつでも取り出せるように…。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。