監督:スタンリー・キューブリック、原作:アルトゥル・シュニッツラー『夢小説』、脚本:スタンリー・キューブリック、フレデリック・ラファエル、撮影:ラリー・スミス、編集:ナイジェル・ゴルト、音楽:ジョスリン・プーク、主演:トム・クルーズ、ニコール・キッドマン、1999年、159分、原題:Eyes Wide Shut
ちょっと長めの映画ではあるが、キューブリック的な結論ははっきりしているのであって、それはラストのシーン、クリスマスの買い物をするという、至って日常的現実的な場所で交わされる夫婦の会話、つまり、・・・
「それ」が現実であろうと夢であろうと、私たちは「それ」をうまく切り抜けてきた、真実なんてわからない、といって夢もただの夢ではないかもしれない、でも私たちはめざめている、これからもめざめたままでいたい…永遠に、永遠なんてコトバは私を不安にする、でも私はいまあなたを愛している、だからいますぐやらなきゃならないこと、それはファックよ!
この映画全体は「それ」の映像であり、夫婦の疑心暗鬼の時間である。
こうしたテーマを包含しつつ、明快なキューブリック的セオリーに乗って作られたのがこの映画だ。
夫には夜の街をさまよわせ、妻には悪夢が襲ってくる。夫がひと夜に経験した現実と、帰宅後、妻の語る悪夢とは奇妙な整合性をもつのである。
街に出れば、恩師の娘、街角の女の子、貸し衣装やの娘と、いろいろな性の誘惑はそこここに転がっている。妻の告白話が気になる夫は、ついつい自分もそうした女たちと関係をもちそうになるが、それを自制しながらも、ある秘密クラブに関心をもち、実はそれが、特異なルールとしきたりをもつ有閑階級の秘密結社であり、実態は選ばれた全員が仮面をつけた風俗クラブなのであった。
他の女性が代わりに犠牲になることで夫は難を逃れ、街角の女の子と関係することもなく、その夜のできごとがあたかも夢であったかのように描かれる。
次の夜帰宅した夫が目にしたものは、なくしたと思っていた仮面をそばに置いて眠る妻の姿であり、その光景を見て自責の念にかられた夫は、このひと晩のことをすべて妻に話すしかなかった。
この映画もまた『シャイニング』のような空間の広がりや色使いであるが、さらに特徴的なのは光の使い方であろう。
夫婦の住居からパーティー会場の大広間にいたるまで、妻が告白話を切り出すまでは、ライトの光も強く美しい。
豪華絢爛たるセットはキューブリック好みの家具や飾りが華やかで、カーテンやベッドカバーなどの色使いも『シャイニング』並みだ。
前半の山は、このストーリーを滑り出させるきっかけとなる、夫婦の会話で、妻役のニコール・キッドマンの演技がうまい。後半、悪夢を話すときの薄明かりの中でのキッドマンの演技もいい。
『2001年宇宙の旅』でも使われたリゲティや、ショスタコーヴィッチのワルツ曲などをうまく取り入れ、華やかさと不安な音をうまく対比させている。乾いた単音のピアノの音は、シンプルなだけに不気味な響きを放っている。
全体的にはややスローテンポではあり、それは考えたうえでのことと思う。なぜなら、一言にしていえば夫婦それぞれの疑心暗鬼を、夢のような現実として描くためには、忙しいテンポでは表せなかったのだろう。
冒頭が長い、つまり、妻の告白までが長い、という批判もあるようだが、女が気を失うというのは後半にかかわることであり、妻が、声をかけてきた男と濃厚なダンスを踊りながらも誘いを断るのは、欲求不満の状態から告白話をさせるのに必要だし、後半とのバランスもあるように思われる。
冒頭、用を足す妻のシーン、オカマっぽいホテルのフロント、貸し衣装やに隠れていた二人の中年の(たぶん)日本人、などは、ご愛嬌だ。
夫たる者は、秘密クラブで仮面をつけてファックするのも危険なら、街角の女の子とヤるのも危険だし、妻とヤるべし、いま目を開いて生きているなら、夫婦がファックで愛を実感するのが何より大事で、ファックは愛の究極の姿なのだ、
というところだろう。
Eyes Wide Shut というタイトルも、そのへんを象徴してのふざけた命名だ。
しかし、この映画、やはり、キューブリックのつくる映像世界を観る映画だ。
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