映画 『ツィゴイネルワイゼン』

監督:鈴木清順、脚本:田中陽造、撮影:永塚一栄、編集:神谷信武、音楽:河内紀、主演:藤田敏八、大谷直子、原田芳雄、大楠道代、1980年、145分。


今でもたぶん年に一度くらいは観ている作品。長いがまた観てしまうのだ。

冒頭にレコードから流れるツィゴイネルワイゼン、その一部に人の声が入っているが、何を言っているのかはわからない・・・・・・

聞こえるが何かはわからない、そこにいるようでいない、あるようでありえない、・・・、現実と、幻想や幻惑、怪奇の境を、四人の人間の生きざまを手がかりに描写している。

日本映画らしく猥雑さや滑稽味も盛られ、ロケ地や映像にも優れている。


ストーリーだけで観る映画ではないのでストーリーのネタバレなど気にしないが、かえって、映像に関して書いてしまうほうが、その映画を観ていない人には罪深いかもしれない。映画はあくまで映像ありきだからだ。

でも書く。


とにかく食べるシーンが多い映画だ。当然計算の上だ。料理から果物一つにしても、満腹になるくらい食べるシーンが多い。

この映画のポイントは、食べる、食らう、口、吸う、なめる、など、口元の行為で、エロから死にいたるまでが、この<口元の哲学>に脚色されている。


この映画はいろいろ受賞しているが、賞と一般の評価はズレることも多い。この映画は当時かなりの人気を得た。こういう映画を受け入れるだけの日本的感性は多くの観客に生きていた。はやりすたれもあるだろうが、邦画の要素を抱き込んだ映画としても自分なりに評価している。

そう、この映画はあらすじだけ読んでも意味がない。映画は一にも二にもストーリー展開とどんでん返しにあると思っている輩には、死ぬまで縁のない映画だろう。


難解とも言われる。難解と思うから難解なので、映画を頭で観ようとばかりすると追いつけない。わかりにくいところがある、ってことがわかればいいのではないか。

めちゃくちゃにわからなくしているのは自己満足映画であり自己陶酔映画として駄作になるが、映像世界でのわからなさなどというのは、東西を問わず、だいたいこの手の映画にはつきものだ。わからないと言って、悩むことも落ち込むこともない。


日本人であるのに、日本映画の映像的遊びの世界を知らずに通り過ぎていくのは惜しい話だと思う。

多少生きてこないとよさがわかりにくい映画、というのはあるだろう。それなら20代以下の人は10年以内に、30代以上の人は1年以内に観てほしい。

つまらないと思うならそれも感想。


何でも、腐っていくときがいちばんうまいんだ、なんてセリフ、おもしろいね。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。