監督:テイ・ガーネット、原作:ジェームズ・M・ケイン、脚本:ハリー・ラスキン、ニーヴン・ブッシュ、撮影:シドニー・ワグナー、編集:ジョージ・ホワイト、音楽:ジョージ・バスマン、出演:ジョン・ガーフィールド、ラナ・ターナー、1946年、113分、モノクロ、原題:The Postman always rings twice
1939年のフランス版以降、1942年にルキノ・ヴィスコンティが映画化し、このあとも1981年にボブ・ラフェルソンによりリメイクされている。
実際に郵便配達が出てくるわけではない。
流れ者のフランク(ジョン・ガーフィールド)は、ロサンゼルスからヒッチハイクでサンディエゴに着き、ガソリンスタンド兼レストランに雇われる。
そこはニコラス・スミス(ニック、セシル・ケラウェイ)の経営する店で、すぐに妻コーラ(ラナ・ターナー)とも知り合う。
かなり年上の夫と暮らすコーラは、日々の暮らしに退屈しており、フランクと意気投合する。しかし、二人の愛を貫くためにはニックは邪魔な存在になる。・・・・・・
コーラは、いわゆるファム・ファタール(運命の女)であり、この映画はフィルム・ノワールの典型である。ファム・ファタールは常にセクシーな美人であり、主役たちは教養や将来の計画性より、本能と目先の計画性だけしか持ち合わせていない存在だ。『深夜の告白』にも似た雰囲気がある。
二人が出会い、仲良くなり、一度目の夫殺しが失敗に終わるまでが前半3分の1、二度めで夫殺しは成功するが二人に容疑がかけられ裁判が始まるまでが次の3分の1、そして、裁判が高裁に進み、フランクは無罪、コーラは過失致死で執行猶予がつき、新たな暮らしを始めるより以降が、ラストの3分の1になっている。
しかし、物語はそう単純でなく、最後の3分の1の後半にはまだまだ出来事が詰められていて、本当のラストには意外などんでん返しもあり、最後まで目が離せない。
後半に向け、実にテンポがよく、なぜニックは妻の心変わりに気付かないのだろうという疑問さえ置き去りにさせてくれるほどのスピーディーな展開で前半が進む。
この映画の製作時期は、ハリウッドで映画の描写の規制が強かったようで、死体、セックス、過度の暴力の描写には、かなりの制限があった。
それだけに、心理描写に傾いた脚色になっており、ややもするとメロドラマになってしまったという批評もある。
しかし『美徳のよろめき』ほどの優雅な背徳ではなく、やはりこれは原作がハードボイルドなだけに、男と女の肌の匂いは伝わるし、検事や弁護士や、後で二人をゆすりにくる男にしても、見栄や欲を優先させる生身の人間だ。
悪女コーラは、一部を除き常に白い服装だ。ファム・ファタールの黒のイメージを脱皮した演出だ。
フランクが店のカウンターに座っていると、音がして口紅が転がってくる。フランクが目をやると、女の足元が映り、次にコーラの全体が映る。そこには、危険な色香を漂わせる毒婦が佇んでいなければならない。それはバーバラ・スタンウィックでなくマリリン・モンローでもなく、当時モデル上がりのラナ・ターナーであった。
この映画には、何回か海が出てくる。まだ出会ったばかりであったが、コーラが泳ぎたいと言い出し、ニックが行かないのでフランクが付いていくのが最初だ。ラスト近くにまた、二人は海に行くが、これはすったもんだの後に二人が愛を確かめ合うときだ。
長く生きながらえてきた映画には、作品詳細やネタバレレビューに関係なく、観てみなければわからないニュアンスというのがある。
それが、ストーリーを追うだけの<聞く映画>と一線を画すところだ。でなければ、ストーリー自体はどうってことない内容のこうした映画が、語り継がれることもないだろうし、いろいろな監督が作りたいとは思わなかっただろう。
子供もなく、夫に飽き飽きしている危険な色気を放つ女盛りの妖婦と愛し合ってしまい、しかもその女に夫殺しをそそのかされたら、……男は夫を殺すんだよ。
これが映画なのさ。
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