監督:三隅研次、原作:谷崎潤一郎『無明と愛染』、脚本:新藤兼人、撮影:宮川一夫、編集:菅沼完二、照明:中岡源権(なかおか・げんごん)、美術:内藤昭、録音:大谷巖、音楽:伊福部昭、主演:勝新太郎、高峰秀子、新珠三千代、佐藤慶、1969年、76分、配給:大映
主要登場人物は4人、無明(むみょう)の太郎(勝新太郎)、その妻、楓(かえで、高峰秀子)、太郎がいま同居している女、愛染(あいぜん、新珠三千代)、上人(しょうにん=高僧、佐藤慶)。これら4人が廃墟となった寺のなかで繰り広げる、仏の法力(ほうりき)と愛欲地獄の葛藤を描いている。無明とは、仏教用語で、無知であること・真理に暗いこと、をいう。
戦乱の世の南北朝時代、戦火を逃れ人里離れた山奥の朽ちた寺に、急峻な山坂を登り、楓がたどりつく。楓は太郎と別れた身であったが、きちんと話をするべく、盗賊となり果てた夫を追って、ここまでようやくやってきたのだ。
太郎は楓の顔を見るなり、帰れ、用はない、と言うものの、楓は愛染ともきちんと話したいと申し出ると、やがて奥から愛染が姿を現す。
傍若無人な盗人に様変わりしている太郎を見て、楓は嘆かわしく思うのであったが、愛染が薪をくべよと言えば、太郎はその言うなりになるなど、愛染にだけは従う、だらしのない男に成り下がっている姿を目の当たりにし、楓いっそう心が曇るのであった。
太郎が自分の心に戻るまではここを動かないと強情をはり、楓は本堂と離れた庫裏(くり、寺の台所)に寝泊まりすることになる。
こうして三人の生活が続き、一向に変化がないまま迎えた半年後の雪の日、ひとりの高野聖が、道に難儀したので休ませてほしい、と頼みに来る。身分の高い僧であることを知り、楓はその上人を庫裏に招き入れ、もてなした。
話を進めるうちに、楓は、夫のことやその夫を狂わせている愛染のことを話し 、仏の慈悲にすがろうと決める。
しばらくして、そこに、太郎と愛染が姿を現す。上人が驚いたことには、愛染はかつて、最も親しい白拍子(しらびょうし=歌や踊りもできる遊女)として、出家前の上人を、煩悩地獄へと突き落とした張本人であった。・・・・・・
楓は愛染をして、上人に、あやつは鬼である、という。男を意のままに動かし、その美貌と肉体によって、男どころか仏までを愚弄する夜叉の心をもつ愛染、その愛欲地獄からきっぱり足を洗い、仏門に入り、厳しい修行を積んできた高僧、この皮肉とも言える遭遇が、その後どんな出来事を生むかは、観てのお楽しみで、これこそバラしてはいけない一線というものだろう。
谷崎潤一郎の原作をもとに、至極シンプルなつくりの脚本をもち、相対する価値観を、一挙にこの四人の交差に引っかけて、ストーリーはゆっくりと進んでいく。
愛染の着る物の雅(みやび)の美しさは、太郎が盗賊をしてかっぱらってきたものばかりである。木仏を割って薪にするなど、すべての邪道のかぎりを尽くす太郎と、太郎を色仕掛けで操る愛染に、楓の妻としての女の一念と、上人の説法や調伏(ちょうぶく)が、打ち勝つことができるのか。
四人のキャスティングは実に的確で、どう見ても善人には見えず、いつも訳ありの役が多かった佐藤慶は、特に適役であった。高峰秀子の化粧と表情の演技により、夫に顧みられない妻の辛さ悲しさが一層強く表現されている。
どちらにも転びそうな展開と、物静かなセリフや丹念なカメラワークと照明、そしてきめ細やかな演出で、ぎゅっと締まった傑作となった。
なお、本作品は、映画製作を志す人にとっては、脚本展開・カメラワーク・照明・演出など、大変参考になる作品である。
0コメント