映画 『少女ムシェット』

監督・脚本:ロベール・ブレッソン、原作:ジョルジュ・ベルナノス、製作:アナトール・ドーマン、撮影:ギスラン・クロケ、編集:レイモン・ラミー、音楽:クラウディオ・モンテヴェルディ、ジャン・ウィエネル、主演:ナディーヌ・ノルティエ、1967年、81分、フランス映画、配給:エキプ・ド・シネマ、原題:Mouchette


ムシェット(ナディーヌ・ノルティエ)は、フランスの片田舎に暮らす14歳の少女がだ、家は赤貧状態だ。母親(マリア・カルディナール)はアル中で寝たきり、父親(ポール・エベール)はこっそり食糧や酒を手に入れてくる程度の甲斐性しかなく、ムシェットには辛く当たり、人前でもビンタをくらわす。まだ生後数か月の赤ちゃんもいて、ムシェットがおしめを替えてあげている。ぼろぼろになった木靴を履き、裾も破れたスカートを穿いて学校に行くが、そんななりのムシェットに教師は冷たい視線を投げ、歌の音程が合っていないとしてピアノに顔を押し付けてまでして歌わせる。ムシェットに、もはや少女らしい明日はあるのだろうか。・・・・・・


ブレッソンらしく他の作品同様、台詞は極端に少なく、音楽も特定のシーン以外には入らない。といって、美しい風景が挿入されることも一切なく、ムシェットの家の中、小屋の中、森や林の中が主な舞台となっている。登場人物にも笑顔とてほとんどなく、ムシェットも同様だ。ムシェットに笑顔が見えるのは、縁日に遊園地で車の形をした回転式のアトランクションに乗ったときだけである。 


タイトルの出る前に、立った姿で母親が「子どもたちがいるからまだ死ねない」と言い、次いでタイトルバックになる。その後、森の中で鳥を捕える罠を仕掛ける密猟者アルセーヌ(ジャン=クロード・ギルベール)と、密漁を阻止する猟場の番人マチュー(ジャン・ヴィベネ)の台詞のないシーンがあり、ムシェットが登場するのは、開始10分ほどである。 

その後、ムシェットの生活ぶりなどが紹介されるように描写され終わる30分経過後からさらに30数分は、嵐を避けるために小屋に避難したムシェットと彼女を連れてきたアルセーヌの二人だけのシーンだ。ここはずっと小屋の中であるので、暗い場面が続く。そして、残る20分の終わりでムシェットは死ぬ。


ムシェットの生きざまは、複数の人々との対話でも垣間見ることができるが、これに、バーの女給ルイザ(マリーネ・トリシェ)をめぐり、アルセーヌとマチューとの取り合いめいたやりとりが絡む。密猟者とそれを防ぐ番人は、独身者と妻帯者である。

このアルセーヌは、小屋での一連のシーンにおいて、ずぶ濡れになったムシェットに対し、初め同情し親切ではあったが、アルセーヌはマチューとの争いの後、マチューを殺したと思い込んでいるので、そのことをムシェットが口外しないようにと、ムシェットを焚火のそばで犯してしまう。実際は、二人とも酔っ払っていたので、これはアルセーヌの勘違いであり、マチューは生きていた。


本作品の構成と内容は以上のようなところであるが、何か起きるわけでも、ストーリーに劇的な起承転結があるわけでもない。ブレッソン映画に共通して言い得ることは、ブレッソンが我々に提供してくれているものは、ほかならぬ映画なのであり、映像なのである、という、余りにもあたりまえのことなのだ。ふつう、ストーリー性もなく、シーンの並列つなぎで終わるような映画は、メリハリもありえず、エンタメ性もなく、駄作という烙印を押されて顧みられない。

遺作となった『ラルジャン』(1983年)で徹底されたように思うのだが、彼の手法は、主人公の生(なま)の生活ぶり、生の一挙手一投足を、外から、即ち、映像という手段で、観る者にうったえかけようという試みなのだ。それも、登場する人物に、裕福で恵まれた人々を据えるということはほとんどありえず、皆がみな、地面を這いずるようにしてようやく生きている市井の人々や犯罪者である。本作品ではそれが少女であった。


ムシェット役のナディーヌ・ノルティエは、全くの素人であり、映画出演もこれ一本だけである。撮影当時18~19歳であるから、中盤以降、少女というには無理があるようにも見えるが、おそらくそれを承知で、姦淫された後の少女は、ややおとなびて見えるといった風に撮りたかったのだろう。容姿とともに、本作品に適役であった。


このムシェットには、果たして、明るい未来はあるのだろうか。学校でムシェットが教師に叱られる原因となったときの歌の一節に、「大きな希望をもってとコロンブスは言った・・・あと三日で必ず新世界は現われる」というのがある。この一節は後半にも再度出てきてムシェットが口ずさむが、いずれにしても、この歌詞のような壮大な未来など、ムシェットには縁がない。

ついに母が亡くなり、家で葬儀の準備が進むなか、ミルクをもらってくると言い、ムシェットは家を出る。最後に呼ばれて入ったうちでは、老婆が、葬式用にと、きれいな服をムシェットに与える。しかし、そんなものは何の気休めにもならないと言わんばかりに、ムシェットは湖のそばへ行き、それを持ったまま斜面をごろごろ転がって、全身枯れ草まみれになってしまう。そしてもう一度ごろごろ転がったところ、水の中に落ち、上がってくることはなかったのである。


帰宅しても、自分の乳飲み子の顔を覗きもしない父、アル中でも酒をとってきて、とムシェットに言い、持ってきた酒を飲み干す母、身なりや歌い方でムシェットに差別的な扱いをする教師、・・・ムシェットはこれら大人の不条理というものに対し、怒りや憤りを示すこともなくなっている。たしかに、自分の領域で起こったことに対しては、多少の少女らしい反応を示す。クラスの他の女子が自分を嘲(あざけ)っていると知ると、下校時、草の影から土の塊を投げつけるといったいたずらもする。ところが、相手が大人たちであると、つまり、社会そのものであると、それに対する抵抗はできず、もらったパンを投げつけたり、きれいな服を草まみれにすることくらいしかできない。


ムシェットが最初に登場する10分までは、罠を仕掛けるアルセーヌと猟場の番人マチューだけのシーンだ。ここでは、執拗に、罠の仕掛け方や罠そのものの映像が描写される。さらに、その罠にはまり、もがき苦しむ鳥のようすもある。

本作品はおそらく、この「罠」がテーマなのであろう。罠には三種類の立場がある。罠を仕掛ける者、仕掛けられた罠を発見し撤去し、仕掛けた者を捕える者、そして罠にまんまと嵌(はま)る者、である。これら三者は、作品中では人間と鳥であるが、ムシェットが垣間見る世の中にあっては、これら三者はそれぞれに、複数の人間であり、罠に嵌るのも人間であり、もしかしたら罠を仕掛けたのは神かも知れない。罠を仕掛けたのでも、それを未然に発見する立場でもないとしたら、消去法でいく限り、ムシェットは罠に嵌った鳥と同じである。ラスト近く、罠ではなく、ハンターが猟銃でウサギを仕留めるシーンが出てくる。獲物が罠に嵌るのを待つより、さらに性急で直接的な捕捉手段である。

ムシェットの死が、事故死か自殺かは説明されない。しかし、罠に嵌った獲物が、苦しみを通り越して早く楽になりたいと、無意識のうちに自ら猟銃の前に転がり出たのである。本作品では「罠」がテーマとされており、「罠」という宿命にとらわれた少女の赤裸々な生が描かれている。


一部の解説に、「貧しく苦労を重ねてるブルーカラーの一少女がどんどん不幸になっていく様を冷徹な目線で描いたブレッソンの代表作の一つである」とあるが、うわべだけを拾い上げたような物言いに過ぎない。また、ダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』(1999年)やラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)にも影響を与えたとする解説もあるが、各監督による確たる証言などがあるわけではない。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。