映画 『獣の戯れ』

監督:富本壮吉、脚色:舟橋和郎、原作:三島由紀夫、撮影:宗川信夫、照明:安田繁、編集:関口章治、音楽:入野義郎、タイトル版画:棟方志功、主演:若尾文子、河津清三郎、伊藤孝雄、1964年、94分、配給:大映


懲役3年の刑を終え、梅宮幸二(伊藤孝雄)は船で、伊豆にある草門優子(若尾文子)の別荘に向かっている。回想シーンに移り、ここまでのいきさつが描かれる。

優子の自宅に、法科の学生で21歳の幸二が花瓶を届けにくる。幸二は優子の夫・逸平(河津清三郎)が経営する花瓶販売会社でアルバイトをしているのだった。逸平は常に外に、遊び女をつくるだらしのない性癖の持ち主であったが、優子は、それを知りつつも、夫には何も言わない。幸二は、しばしば優子に会うたびに、逸平に虐待されている優子に、恋とも同情ともつかない思いを感じるようになっていった。

ある日、優子の気持ちを察するあまり、優子とともに、逸平のいる女の家に行く。ベッドに女といた逸平は、女も前で、逸平にすがりつき、このまま家に戻るよう哀願するが、逆に優子をなぐりつけた。怒りに燃えた幸二は、持っていたスパナで逸平を殴りつけてしまう。

時間は現在に戻る。伊豆に着いた幸二は、さっそく優子の別荘に行くが、そこには、幸二に殴られたせいで半身付随で失語症にもなり、見る影もなくなった逸平もいた。優子はそこで使用人を置き、育てた植物を発送する仕事をしていた。優子の計らいで、幸二もそこで働くことになる。寝床は夫婦と同じ家の中であった。ある日、逸平は優子に頼み、二階の幸二の寝室の隣に、自分たちの床を敷くことになった。・・・・・・


もろに原作ありきの脚本だが、ポイントになる台詞をはずさず、前へ前へと進んでいく。貞淑な優子と純情な青年・幸二とのやりとりがメインだが、その横には、常に逸平の影がつきまとう。よいよいになっても、逸平の意識ははっきりしており、妻に懸想する幸二の心理を操っていく。優子は優子で、逸平が不自由なからだになってからは、その面倒をみることに生き甲斐を見出したかのようで、以前とは異なり、幸二を弄(もてあそ)んでいるようだ。

幸二が逸平を連れ、二人だけで散歩に出たとき、幸二はその息苦しさを逸平にぶちまける。いつも二人を冷笑するような逸平の態度に我慢できず、あなたの本当の狙いは何か?と幸二は逸平に問う。これに対し逸平は「死にたい」とだけ呟く。


その夜、伊豆は暴風雨となった。夫の「死にたい」という寝言を聞いた優子は、隣の蚊帳の中にいる幸二に寄っていき、二人は媾(まぐわ)う。しかし、幸二はふとふりかえった隣の部屋から、逸平が不吉な微笑を浮かべ自分たち二人を見つめているのを見て、逸平を殴り殺してしまう。

幸二の死刑が執行されると、海を見下ろす高台に、三人の墓が並べて建てられる。生前、幸二は反対したが、優子の希望どおり、優子の墓を中央に、左右に逸平と幸二の墓が並べて建てられた。


獣の戯れるように、という台詞が前半に出てくる。それは。逸平が優子以外の女と遊ぶことのたとえとして幸二が使った言葉だ。だが、結果的には後半より、妻を愛する男と下半身不随の夫とその妻の奇妙な三人の生活に移ってからは、幸二と優子の媾いを指しているかのようだ。


情欲を抑えつつ、人妻への慕情を募らせる青年、夫への愛は義務のように成し遂げながらも、一方で青年の気持ちを操る美しい人妻、失語症になったとはいえ、不気味な笑みを浮かべ、二人を眺めるのを楽しむ夫、・・・およそ薄気味悪い人間関係の構図であり、その先はおよそ建設的・創造的展開とはならず、いずれも朽ちていくという結論は、三島作品であると思い知らされる。


主役三人のそれぞれの演技と、合間にはさまれる伊豆の海岸の光景で、見応えある作品となっている。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。