監督・脚本:西川美和、原案:佐木隆三『身分帳』(1990年)、撮影:笠松則通、照明:宗賢次郎、美術:三ツ松けいこ、編集:宮島竜治、主演:役所広司、2021年、126分、配給:ワーナー・ブラザース映画
元ヤクザ者で喧嘩っ早い性分の三上正夫(役所広司)は、殺人罪による13年の刑期を終え、旭川刑務所から出所する。血圧が高めなため、常に血圧降下剤を服用している。東京の身元引受人夫婦(橋爪功、梶芽衣子)の世話になり、アパート暮らしを始める。市役所の担当者(北村有起哉)に何度も頼みこみ、何とか生活保護を受けられるようにもなる。自動車免許の再試験にも挑戦し、職探しをする毎日が続く。スーパーでは、万引きと間違えられるが、その一件でそこの店長(六角精児)とも親しくなる。
一方、コピーライターの津乃田(仲野太賀)は、あるテレビ局の知人・吉澤(長澤まさみ)から電話をもらう。受刑者が社会復帰しづらい世の中のようすを、三上という男の実例に基づいてテレビで放映すれば、社会に対して一石を投じることになるので、彼の身分帳を読んだうえで、取材に行ってくれ、という提案であった。
津乃田は三上に会いに行き、テレビ放映することで、生き別れになっている三上の母と再会できることになるかも知れないから、などと説得する。・・・・・・
全編にわたり、一定のテンポが保たれ、映像も美しいものをタイムリーに取り入れ、カメラワークも基本と応用に忠実だ。出演陣の演技は、脇役にいたるまで確かであり、音楽もクラシック調の静かな旋律が演出効果を増し、一幅の「絵」としては、とくに問題ない作品だ。
受刑者が社会復帰しづらい世の中とはいっても、これほど親切で心暖かな人々に遭遇し、娑婆で新たな生活に挑もうとする三上には、実際的にとてもありがたいことだらけである。ようやく見つかった就職先は、介護施設での補助作業であった。いろいろな出来事はあったが、仕事も見つかり、ある日の仕事帰り、やや知恵遅れの若い同僚職員からコスモスの花をもらう。嵐が来そうだから、その前に摘んだ、と彼の言うコスモスであったが、その嵐の吹く晩に、倒れて死んでしまう。三上としては、出所後、絶頂の時にあったはずだが、まるで元ヤクザは何をしても報われず、とでも言うかのように、あっけなく死を迎えるのである。
そこに「すばらしき世界」という題字が出る。凶悪犯罪を犯した元受刑者に、こんなに親切にしてくれる世界がどこにあろうか。これぞすばらしき世界だ、ともとれるが、また、元受刑者の周囲にこれほど心の暖かい人々がいても、やはり死の一事をもって三上の存在や周囲の人々の好意は無に帰してしまう、という皮肉で空虚な意味合いとしてのすばらしき世界、ともとれる。
本作品が、まことに流麗につながるシーンの連続をもちながら半端感が残るのは、映画としての主張が明確でないことと、それによりエンタメ性が置き去りにされてしまったところにある。受刑者の社会復帰に関し、吉澤の台詞とスーパーの店長の台詞は相容れない。いろいろな見解がありうるなか、どういうスタンスに立つかで、内容や重きを置くアクセントが異なってくる。
本作品から与えられる選択肢とは、一つには、受刑者の社会復帰は、かような心の暖かい親切な人々によって可能である、であるから、元受刑者には、出所後、できるだけ親切に応対する社会環境や制度を整備し、元受刑者に対する世間の人々の先入観を取り払うべきだ、という考えであり、もう一つはその逆で、この映画にあることはすべて理想であり、現実には元受刑者に対して世間の目は冷たく、多くの受刑者がまた同じ道に戻ってしまう、それは嘆かわしいことだ、という考えである。
とすれば、だからこそ、映画というこの虚構の世界で、世に受け入れられる元受刑者を描いたということになるのだが、それは即ち、その虚構の世界こそすばらしき世界であって、現実にはありえない、という結論が前提にあればこそできる解釈である。
これらいずれの立場にも立たず、いろいろな意見がありますね、というなら、それは映画としては、陳腐な精神的ロードムービーにほかならない。それならそれで、受刑者の社会復帰などという看板を上げず、原作を大幅に脚色してでも、三上のロードムービーにしてしまったほうがよかった。
本作品の場合、いずれかのスタンスを選択し貫いていれば、一本の映画としてまとまりをもったはずである。ちなみに、スタンスの違いが、その映画の評価を左右することはない。映画への評価や好悪は、そのテーマやスタンスとは無関係だ。
しかし、まさにその評価を懸念したせいなのか、脚本の全体的な流れがふやけてしまい、ストーリーの収斂先が見えず、予想させる伏線もなく突如現れた三上の死によってコトここに至れり、というのでは尻切れトンボである。直前の強い風やコスモスは、三上の死というこの映画でのラストでの出来事の伏線とはなりえない。もしそういうつもりなら、それは余りにも軽々しい演出だと言わざるを得ない。そのラストを含む8分間を切り捨てたならば、三上が最高にハッピーな状況で終わるということになるが、それでもそこまでの経緯からして、ふやけた並列つなぎの脚本では、大きく変わりはしないだろう。三上の突然の死をストーリーの収斂と位置付けるなら、映画上、それなりのストーリーがそこまでに用意されていなければならなかったが、三上の死にストーリー上の必然性がない。三上の死を非常によく解釈するなら、出所後、社会の悪に遭遇しても、仕事に就いたからには短気を起こさず、我慢に我慢を重ねた結果、ついに血圧が上がり過ぎて急死した、とでもいうことになろだろう。
監督が脚本を兼ねた場合、優れた作品になるかそうでなくなるかのいずれかに分かれる、というのが私の持論だ。前者の場合、ときとして純度の高い作品が産まれる。後者の場合、この台詞も入れたい、このアイデアも入れたい、ということになり、結果として総花的な映画に終わる。結果として、メリハリのない作品となる。メリハリがあるかないかは、エンタメ性をもてるかどうかの基本だ。シリアスなテーマの映画であっても、エンタメ性をもたせることはできる。
本作品の場合、台詞には大きな問題はないが、考え方を明確にせず、全体にいろいろな見方がありますよね、としたところに、作品を陳腐なものにしてしまった原因がある。
すばらしき世界、とは何なのか。お伽噺の世界ではなかったはずだ。
三上がスーパーでキャベツを選ぶシーンがある。まるごと一個にするか、半分のものにするか、そして初めに手にしたものとは別の半分のキャベツを選ぶ。本作品をこのシーンになぞらえて言えば、いろいろ迷うから、まるごと一個のものも半分のものも先に持った半分のものも、みんな買ってしまい、持て余したということになる。
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