監督:オットー・プレミンジャー、脚本:フランク・フェントン、撮影:ジョセフ・ラシェル、編集:ルイス・R・レフラー、音楽:シリル・J・モックリッジ、ライオネル・ニューマン(指揮)、主演:マリリン・モンロー、ロバート・ミッチャム、1954年、91分、原題:River of No Return
ゴールドラッシュに沸くアメリカ西部が舞台。西部劇ではあるが、集団でのドンパチはなく、さすらいゆく男と女の物語だ。これもシネマスコープで、雄大な山々やメインとなる河、キャンプ場や酒場などが、効果的に映し出される。
マット(ロバート・ミッチャム)は9歳の息子マークを探してキャンプ場にたどり着く。
マークはサロンで手伝いをしており、その酒場には歌姫ケイ(マリリン・モンロー)がいて、客に歌を披露していた。
マットはマークを連れ帰り、河沿いで畑仕事をするが、ある日、河に流されているいかだを救う。そのいかだには、ケイとその恋人ハリー(ロリー・カルホーン)が乗っていた。
ハリーはカウンシルシティに行き、見つけた金鉱を登記しなければならないが、いかだで河を下るには急流が多すぎ、山を馬で越えるのがいいとマットから聞くと、恩知らずにもマットを殴り倒し、馬とライフルを奪い、山道を行くことにする。
ケイはマットの手当てとマークのためにここに残り、ハリーが戻るのを待つことになった。
しかし、遠くにはインディアンが、白人を狙って、狼煙(のろし)を上げていた。・・・・・・
マリリン・モンローの西部劇には『荒馬と女』もあるが、あれほど哲学的でなく、ストーリーとしては明快でわかりやすい。それは主役三人に、マークという少年が入っていることからもわかる。
子役が大人に交じって主役を張るのは、それなりに責任重大だが、この子役は演技と発音がいい。ロバート・ミッチャム、マリリン・モンローと、しっかりトライアングルの頂点を成している。
この映画のもうひとつの主役は、三人がいかだで下る河であり、この河こそ帰らざる河である。
三人が実際にいかだに乗るシーンは、急流ではスタンドインを使っていたり、人形を使っていたり、スタジオ撮影も交じっていたりするが、それでもなお、迫力をもっている。
ところどころの合成は、この手の映画には付き物で、それなりに当時としては最高級の技術で臨んでいるはずだ。
欲にかられた歌姫から、真の愛に気付く薄幸な女を、モンローが熱演している。途中、金髪をうしろに垂らしたケイにマットが抱きつき、抗(あらが)うケイを力づくで倒すシーンがよい。
ロバート・ミッチャムもスケールの大きいがしかし堅実な西部男をしっかり演じた。ミッチャムにしてみればお得意な分野だろう。
話の辻褄がきちんと合う気持ちよさがあるが、何回も観てきたこの映画を今回また観て思うことは、フレーム内の充実ぶりだ。ワンシーンごとのフレーム内の人物の位置や背景の横のラインとのマッチングがいいのだ。
内容は別にコメディではないのだが、画面画面の映像が常に充実していて、そのことにさえ観る楽しみを覚える。
単にアングルがどうこうというのではなく、シネマスコープでもあり、特に横移動のときを含め、フレームの切り取り、パンもみごとだ。いわゆる過不足のないフレーム処理だろう。
ベテランの監督とカメラが、余裕をもって撮影しているに決まっている。映画を観たなあ、と思うのだ。
モンローの歌う歌は、せつなくも悲しい。彼女の歌、『モロッコ』に似たラストシーンなど、エンタメ性も充分で心憎いまでの仕上がりだ。
これこそフルスクリーンで観たい映画だ。
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