監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ、撮影:クリスティアン・ベルガー、編集:ミシェル・ハドゥスー、音楽:ラルフ・リッカーマン、主演:ダニエル・オートゥイユ、ジュリエット・ビノシュ、2005年、119分、仏伊独墺合作、フランス語、原題:Caché(隠されたもの)
ある夫婦、ジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)とアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)の家に、その家を正面から定点長回しで撮ったビデオが送られてくる。実際は、その映像が映画のファーストシーンにもなっているので、正確には、送られてきていた、であり、それを見て不審に思う夫婦の会話につながって、ようやく映画は始まる。
このフランス人の夫の実家は裕福であり、幼少のころフランスが属国扱いしていたアルジェリア人の親子を養っていたが、アルジェリア人レジスタンス弾圧のためのフランス当局の手入れにより父親は逮捕され、残された男の子を養子にする話もあったが、子供時代の夫はその子に対しあるいじめをおこない、それを明らかにされるのを恐れて親に言い寄り、その子は施設に追い出されてしまう、…夫にはそんな過去があった。
はたして、不気味な絵とともに送られてくるビデオは誰のしわざなのか、当時施設に出されたマジッドか、またはその息子か、何を目的にしたいやがらせなのか、または…、さまざまな犯人が想像できる。
ラストのほうで、施設にむりやり送られる子供のシーンが、定点遠景長回しで撮られ、次のラストでは学校の出入口がやはり定点遠景長回しで撮られるが、その左側には、かつて施設にやられたマジッドの息子と、ジョルジュ夫妻の息子ピエロが話す姿があり、そのままエンドロールになる。
いわゆる観客の頭を混乱させるたぐいの映画で、解釈が何通りかありうる。ストーリー自体はわかりやすいので、犯人探しをするのであれば手がかりはつかみやすい。
しかし、おそらくこの映画の制作意図は犯人探しよりも、過去や現在に<隠された>人間としての誇りや疚しさを提示したいのだろう。青年になったアジッドの息子が、ジョルジュの職場に押しかけて問答するなかに、はっきりと疚しさという言葉が出てくる。
全編に音楽なし、カメラは定点長回しが多く、そういう意味では目は疲れないが、精神の眼は疲れる。おそらくそれは監督の狙いであり、疲れる精神の眼を疲れないように観客がみずからコントロールすることを期待しているのであり、そのコントロールにより、この映画のテーマ「疚しさを感じないのか」という提示に、観客は答えを出さざるをえなくなるのだ。
ビデオを送りつけた犯人は、ファーストシーンがそのまま内容につながっていくことからも明らかだが、それは観客であり、あなた自身なのだ。
この映画を観る際は、大人も子供も、フランス人の顔かアルジェリア人の顔かを区別しながら観たほうがよい。われわれ日本人には、どちらも同じように見えてしまう。
また、ちょっと残忍なシーンが二箇所ある。
0コメント