監督:黒沢清、脚本:マックス・マニックス、黒沢清、田中幸子、撮影:芦澤明子、照明:市川徳充、美術:丸尾知行、松本知恵、VFXスーパーバイザー:浅野秀二、音楽:橋本和昌、主演:香川照之、小泉今日子、2008年、119分、日本・オランダ・香港合作。
監督は『CURE』(1997年)などの黒沢清。『ドッペルゲンガー』(2003年)『叫(さけび)』(2007年)などより、よいできと思う。
夫婦と長男次男の四人家族には、それぞれ他の家族に言えない秘密があるが、やがてそれが互いに明らかになるにつれ、この家庭は崩壊の危機に陥るものの、なんとか修復される、という物語。
家庭の崩壊を扱ったが、深刻なまま社会問題として提起したいわけではなく、家族愛とは何ぞやという執拗な問いかけがあるわけでもない。
問題はたしかにそこにあり、解決らしい解決方法があるわけでもないのだが、そこを文字やセオリーを使わず、映画的イタズラでくぐりぬけようとしている。提起したいものから外れなければ何でもありみたいなところが、この監督にはあるようだ。
香川照之演ずる父親がトラックにはねられたり、目が覚めたら他の場所にいて重傷ではなかったりするのは一例だが、役所広司演ずる強盗の出現はその最たるものだ。
この強盗こそ唐突に出現し、その後の言動も奇妙なのだが、小泉今日子演ずる母親が新たな再生を見いだすのには不可欠な存在だった。そのためだけにストーリーに必要だったので、この男の行く末は見向きもされない。
父親がいただきますと言わないと食事が始まらないような家庭の雰囲気は、長男の米軍志願から崩れはじめるが、その少しずつ崩れゆくテンポがよい。
ここぞというシーンのフレームがよい。フレームの切り取りかた、カメラの高さ、固定と手持ちの使い分け、対象に対する節度など、たいへんお気に入りだ。
冒頭近く、父親が暗に退職を迫られるシーン、ああいう切り取りは好みで、こういうカットができるならあとは安心と、落ち着いて観ることができる。
近づこうとすれば近づけるのに、アップにしようと思えばできるのに、それをしない演出がいい。
素材としては、この家族の自宅の位置がよい。次男の顔が役柄に適している。小泉今日子の表情も決まってるし、井川遥のキャスティングもよい。
香川照之の演技もいつもながらうまい。
しかしそれでも、映画は結局カメラだ。映像的効果がなければ、いくら俳優に演技力があろうが、ふさわしい素材があろうが、つまらない絵になってしまうのだ。
家庭が新たな方向に進み出してからの描きかたが弱いとも言えるが、崩壊しっぱなしに終わらせないという救いをもたらしているのだから致命傷とはならない。
次男が入試の課題曲としてドビュッシーの「月の光」を弾く。このピアノ曲を最後まで聞かせて親子三人が画面から消える。ラストシーンに名曲を聞かせて、いろいろあったが心洗われたという演出もまたズルい感じがするが、映画的創作として、よしとしよう。
ストーリーだけ追うと突っ込みたくなるところはいろいろあるが、映像が行き届いていてすばらしい。
この監督の作品は、常に、人々の日常に軸足が置かれながら、視聴者を異様な世界に誘ってくれる。本作品もオススメできる逸品だ。
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