監督・脚本:ラース・フォン・トリアー、撮影:アンソニー・ドッド・マントル、音楽:クリスチャン・エイネス・アンダーソン、主演:ウィレム・デフォー、シャルロット・ゲンズブール、2009年、104分、デンマーク・ドイツ・フランス・スウェーデン・イタリア・ポーランド合作、英語、原題:カラー(一部モノクロ)、原題:ANCHCHRIST、映画タイトル:ANTICHRIST、スクリーンタイトル:ANTICHRIS♀
夫婦(彼:ウィレム・デフォー、彼女:シャルロット・ゲンズブール)がセックス中に、幼い一人息子ニックが、窓からあやまって転落し死亡する。
彼女は深く傷つき、ニックの死に対し、強く自責の念に駆られる。しばらく入院加療したものの精神の不安定は改善しないので、セラピストでもある彼が、自宅に連れて帰り看護する。
それでもなお回復が見込めないため、彼は彼女に、恐怖を感じるものは何か、と問う。恐怖を克服すれば、落ち着きを取り戻すはずだという。
やがて彼女の出した答えは、森であった。
二人は森に向かい、歩いて行く。休憩したあと彼女が先に歩きだしたので、彼があとを追うと、古ぼけた山小屋の中で、すでに彼女は寝ていた。・・・・・・
モノクロのプロローグとエピローグに、カラーの四つのチャプターが挟まれる構成になっており、プロローグで悲しく流れるヘンデルのアリアは、エピローグでも流されるが、メインとなるチャプターにはメロディらしきものは入らない。自然の音や、効果音のみだ。
夫婦の過去は抹消されており、父と子、母と子の描写もほとんどなく、それらを暗示する会話やカットが入るだけで、夫婦の名前さえなく、彼は男の代弁者であり、彼女は女の代弁者である。
二人の向かった森はエデンという場所であり、小屋やそこにある道具以外に、なんら文明文化を表すものはない。
彼女のセリフに、自然は悪魔の教会だ、という言葉があり、第2章の副題には、カオスが支配する(Chaos Reigns)という言葉が示される。この映画のテーマはおそらく、これらの言葉と nature がキーになっている。
キリスト教文化圏に過ごさない我々にはピンとこないテーマ性ではあるが、女を奴隷化したり蔑んできた歴史は、日本でもみられた事実であり、その後今日にいたるまでのそれら文化の皮を剥ぎ取るカタチで、本来の男と女の野蛮な本性と、相互に相手にもちうる矛盾さえ同在する感性や欲望といった関係を、露骨に示した作品とみることができる。
時代を遡って原初性をあらわにするのではなく、森や小屋しかない自然という素材において、それらを現そうとしている。
時代が下るうちにまとわりついた男女の関係、特に女が性の対象として太古の時代から、男に翻弄される性であることを、子供の突然死をきっかけに、彼女は精神錯乱のなかで自覚する。
そして、彼にうったえかけ、挑戦し、脚に鉄の棒を突き刺すが、力では男に負け、殺されてしまう。
世界を制覇したかのような男が、森から歩き始めるとき、顔だけモザイク処理された多数の女たちが、彼の方へと群がってくる。
彼はいったい、どこへ向かって歩いていけばいいのか。
原始的野蛮性を象徴するかのように、それぞれのチャプターに、鹿、きつね、カラスが登場する。これらは各チャプターを象徴する存在でもあり、ラストでも登場し意味深長だ。
野蛮性と、太古から変わらぬ性のありようを現すために、多少<痛い>シーンが入るのもやむを得ないのだろう。
現実と幻想が織りまぜられた映像…、もちろんそうなのだが、森にしても小屋にしても、更には、この彼と彼女とのやりとりまでもが、テーマからすれば、すべて幻想に見えるのだ。
しかしそれらは幻想ばかりではなく現実でもあるのであり、それを現すのが、彼女が彼の脚に鉄棒を突き刺すシーンや、彼女がハサミで自らの陰部を切断するシーンなのであろう。
そんな彼女さえ、生前のニックには、左右逆に靴を履かせていて気付かなかった。
何層にも重なりうる過去は観客が想像するしかない。相対立する性も、所詮は不完全なカタチしかもたない。それが男女のつくる歴史ということか。
プロローグの高速度撮影など、全編にみごとに美しい映像やテクニックが楽しめるが、投げられた課題は、美しさとはほど遠い。
赤ん坊は窓から落ちる、鹿の子は死産のまま母体からぶら下がる、木の実が屋根に落ちる、そして、「女」も地面に落ち、やがてキリストも「落ちる」のだろう。
主役二人のキャスティングは成功している。
ラストに、タルコフスキーへの献辞が出される。
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