映画 『蜘蛛の瞳』

監督:黒沢清、脚本:西山洋一、黒沢清、撮影:田村正毅、編集:鈴木歓、照明:佐藤譲、美術:丸尾知行、録音:井家眞紀夫、音楽:吉田光、主演:哀川翔、ダンカン、1998年4月公開、83分、配給:大映


『CURE』(1997年)の翌年の作品で、『蛇の道』(1998年2月)に続き間断なく発表された作品。


一人娘を誘拐され殺された新島(哀川翔)は、犯人(寺島進)をとらえ、廃屋の一室に監禁する。椅子に手足をガムテープで括りつけ、猿轡(さるぐつわ)を噛ませる。数日後男は死にその死体を某所に埋めてくるが、これらの事実を妻・紀子(中村久美)は知らない。ある日、ベンチで休んでいると高校時代の同級生、岩松(ダンカン)に声をかけられ、転職して自分のしている仕事を手伝わないかと誘われる。妻の同意を得たので、岩松の仕事場に行くが、何かの書類に判を押すだけの仕事で、そこにいる岩松の部下に何の書類か尋ねても、詳しくは知らないとのことだった。実は岩松らは、依頼を受け、人殺しをしている一団だった。・・・・・・


『蛇の道』が全体的に visual に進行するの比べ、こちらは心理ドラマに近い展開をするので、事態の推移だけを見守ろうとすると、大きな事件や山場があるわけではなく、といって大いなる暴力のシーンなどがあるわけでもないので、やや冗長に感じる。ただ、前作同様、カメラは横着をせずよく動き、そのフレームどりも神経質なほどによく練られて決定されており、奥行きのある景色や広大な岩山、湖などを要所要所に収めているあたりは、同じ監督の作品だということを明確に認識させるものとなっている。


『蛇の道』が、人間の醜悪な部分に光を当て、そこに影のように浮かぶ善なるものを対蹠(たいせき)的に浮き彫りにしたとするなら、本作品は、人間の醜悪な部分に光を当て、その部分をどこまでも凝視することで、その醜悪から逃れ切れない人間の弱さ、その醜悪を繰り返さざるを得ない人間の性(さが)を描き出したように思われる。


6年越しで娘を殺した男を見つけ、復讐を果たしたことで、新島はそれ以前の退屈な生活に戻るという設定から始まる、と、どのあらすじ紹介にも書かれている。とすれば、もともと新島の生活は、公私ともども、娘がいたとしても退屈な日々の連続であったのだ。その退屈に思えるような、それゆえに無事な日々の幸不幸が、娘を殺されたことで覆され、その道徳観念や倫理観という枠がはずれ、一挙に粗悪そのものの日常へと堕していく。ずるずると犯罪に手を染めていってしまうのだ。さまざまな殺しは、そのプロセスに起きる具体的な事実である。それでも、人間である新島には良心もあり、友人を庇う思いやりもある。しかしそれさえも、複数人の中においては、即ち、社会においては、大勢の力学や権限の作用により、自身の思う通りにはならないのである。


本作品では、よく人が殺される。それも拳銃で撃たれて簡単に殺される。生命を奪うという究極の行為がいとも簡単に行われていく。しかしそこに、達成感や、その瞬間に一挙に集中される熱情などといったものは存在しない。最終的に一人生き残った新島に、何が残っただろうか。「こうせざるを得なかった」という口実や回顧だけだ。事実、椅子に縛り付けて殺して埋めたはずの男は、車椅子に乗っているとは生きていた。男を埋めたはずの穴は掘り返されており、この憎き犯人の死体を見守る位置に立っていて白い布を被せてあったものは、娘を象徴する物体かと思いきや、布をとると実はただの木の柱であった。文字通り木偶の坊(でくのぼう)だった。復讐をしたところで、あの世にある娘にその気持ちは届かない、それどころか、亡くなった娘は幽霊のような存在として、夫婦の間にただ漂っていただけなのである。


本作品は、生のこうした<無意味性>や<空しさ>を描こうと努めた映画なのだろう。これら両者は、いたるところに象徴として挿入される。転職する前の新島のいる職場では、机上にシャーレが並んでおり、そのつど一つ一つ開けてはそこある菓子を食べている。魚釣りにいっても魚は引っかからず、ようやく新島が引いたと思ったら長靴であった。岩松の部下は岩松の指示で、室内でローラースケートをしている。復讐をおこなう部屋や岩松の事務所の殺風景さ、日沼(菅田俊)の収集する古代の化石も同様だ。


本作品はやはり、カメラワーク、フレーム取りが注目されるべきだろう。人間の内面を描きながら、壮大な景色や奥行きのある映像は、これが映画であるという当然の事実を観る側に突きつけるのであり、横移動しながらの定点長回しや望遠撮影、左右へ行ったり来たりの撮影など、ルーティーン化していく新島のそのつどの醜悪描写のアクセントとなっている。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。