監督・脚本:柳町光男、原作:中上健次『十九歳の地図』、製作:柳町光男、中村賢一、撮影:榊原勝己、美術:平賀俊一、照明:加藤勉、編集:吉田栄子、録音:瀬戸厳、音楽:板橋文夫、主演:本間優二、製作:プロダクション群狼、1979年、109分。
19歳で予備校に通いながら、朝晩新聞配達の仕事をしている吉岡まさる(本間優二)の「生きざま」を、その周辺の人物と彼の心理からくる行動を中心に描いた<青春もの>である。新聞店のまかない付きで、その二階に他の若いバイトメンバーと一緒に住んでいる。吉岡の同室には、30歳を超えた紺野(蟹江敬三)がおり、メンバーから女ったらしで借金もあり、競馬にうつつを抜かしているダメ人間だ。紺野は時折、マリア(沖山秀子)という片足の不自由な女のところに出入りしていた。・・・・・・
何回か観てきている作品だ。監督は『カミュなんて知らない』(2005年)で知られる柳町光男。都内北区の下町の風景を背後に、吉岡の貧しく希望もなく鬱屈した生活が描かれるのみだ。集金に行ってもとぼけて断られる、配達場所をくどくど指定される、吠える犬がいる家ではその犬に泥を投げつける、、・・・そうしたことに我慢ならず、吠える犬は殺して吊り下げたりし、配達先の克明な自前の地図を書いて、腹の立つ家には✖を書き入れ、電話帳で電話番号を調べ上げ、いたずら電話をする。吉岡の不満の捌け口の唯一の手段だ。
向かいのアパートには喧嘩の絶えない夫婦がいる。仲間にはボクサーもいたが、試合に負け田舎に帰る。配達店の夫婦は、後妻(原知佐子)にとやかく言われるしがない夫(山谷初男)だ。周囲の人間もみな、日常をようやく生きている人物たちであり、吉岡が頼ったり相談に乗ったりするような人物はいない。かろうじて紺野と話す機会は多くなるが、とても人生の先輩と言えるような存在ではない。
紺野のよく言うマリアという女に会ってみたいと吉岡が言う。マリアの住まいもボロアパートで、かつて自殺しようとして助かったが、そのせいで片足が曲がらなくなっている。紺野はマリアにだけはやさしくし、吉岡はそこに人の世の多少とも<人間的要素>を垣間見る。といって、紺野がマリアにする贈り物は、通行人の女から強奪したカネであった。
吉岡の鬱屈と気晴らしを、徹底して彼の日常の生活次元で描いており、吉岡自身に責任があるものの、将来への夢や希望もなく、それがためか誠実に生きていく・まじめに勉強に取り組むといった姿勢は見られない。この作品がいかなる目的で作られたのか。出口のないひとりの青年の苦悩というのは大仰だろう。吉岡の<悩み>なるものが丁寧に描写されているわけではないからだ。鬱屈し、たまったものと、その吐き出し口は描かれた。周囲の生活に追われている人々や、だらしのない人間たちも描かれた。死んでしまいたかったが生きている女も描かれた。その並びに、吉岡というひとりのようやく生きている若者の実態も描かれたのである。
吉岡がマリアの家に行き、マリアを罵るシーンは、本作品としての軸なのであろう。マリアは紺野だけではなく、他の男も寝ていてカネをもらっている。マリアはそうやってしか生きていけない。そのマリアの存在は、あたかも自身を照らされたようでもあり、吉岡はマリアに悪態をつく。おまえみたいなブスは死ね、生きててもしかたない、などと言う。しかし、自身の鬱憤晴らしにいたずら電話をかけるようなことしかできない自分と、どの程度の違いがあるのか、五十歩百歩ではないのか。ある日の爆破予告のいたずら電話をしたあと、そのあまりにも情けない行為しかできない自分のみじめさに気が付き、ひとり嗚咽する。
吉岡は通りで、ゴミ置き場から、捨てられたドレスを拾ってそれを身にまとい、うれしそうにしているマリアを見かけ、一瞬視線を交わすが、無言でそれぞれ去って行く。ラストシーンとして、ここに余計な台詞を入れなかったのはよかった。
自分のしていることのみじめさに気が付いたとしても、吉岡に、改心しようとか気概を持って生きていこうとかいう前向きな姿勢は見られない。同時にそれを、周囲や国家のせいにするといったこともない。吉岡のような若者がいるという<事実>を描いたのであり、吉岡は、この時代の一部の19歳の代弁者なのは確かであり、吉岡の周辺もこの時代の一部の人々の代弁者なのは確かであろう。
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