映画 『ケス』

監督:ケン・ローチ、脚本:バリー・ハインズ、ケン・ローチ、原案:バリー・ハインズ「少年のケストレル」、製作:トニー・ガーネット、撮影:クリス・メンゲス、編集:ロイ・ワッツ、美術:ウィリアム・マックロウ、音楽:ジョン・キャメロン、主演:デヴィッド・ブラッドレイ、1969年製作・1970年公開(日本公開は1996年)、イギリス映画、110分、原題:Kes


イギリス映画ではあるが、地方の訛りがあり、相当クセのある英語が話されている。

公開直後、日本では「少年と鷹」というタイトルでテレビ放映されたことがあったとのことだが、正式な公開は1996年5月になってからだ。

原作は「A Kestrel for a Knave」というタイトルで、「少年のケストレル」という意味。「Kestrel」は、チョウゲンボウというハヤブサの一種で、「Knave(néɪv)」は、古語の英語で、男の子・少年の意。設定は、1960年代前半で、イギリス・ヨークシャーの田園地帯にある、さびれた炭坑町。


15歳のビリー・キャスパー(デヴィッド・ブラッドレイ)は、パート勤めの母と、炭坑で働く年の離れた兄ジャド(フレディ・フレッチャー)との三人暮らしで、貧しい生活を送っていた。朝、学校に行く前には新聞配達をするくらいで、一本調子の日々を送っていた。ある日、草原を歩いていると、ハヤブサが飛んでいるのを見かけ、興味をもつ。翌日、巣を見つけ、ヒナを一羽、抱いて帰ってきた。それからは、ハヤブサの飼い方などの本を参考にし、そのハヤブサを「ケス」と呼び、調教していく。・・・・・・


ビリーは、少年としては健全に成長しているものの、母や兄としっくりいかず、学校でも不埒な扱いをされる。新聞配達の最中にミルクを盗んだり、ハヤブサの本も万引きしたりする。新聞に載っているマンガを声を出して読んだりする。子供にとって娯楽のないこの時代の田舎町では、この程度の楽しみしかなかっただろう。その意味で、母親がビリーをあまりかまわず、兄は女漁りや競馬にしか関心がない。そんななかでも、ビリーは一人の少年としては朗らかに活き活きと生きているのだった。しかし、母や兄に肉親らしい愛を受けることもなかったビリーは、ハヤブサとの出会いで初めて、何かを大切にする、という観念に芽生えるのである。ハヤブサとの出会いは、彼の生活を一変させた。


特に夢中になる対象のなかったビリーが、ハヤブサを育て調教することについては、大いに熱心であり、苦労も厭わず、むしろ楽しい時間となってくる。ジャドに頼まれた競馬の馬券を買わなかったことが元で、ジャドにより「ケス」は無惨にも殺され、ゴミ箱に捨てられていた。ジャドとの大喧嘩の後、ビリーはゴミ箱から「ケス」の遺骸を拾い上げ、穴を掘って埋める。このシーンでいきなり映画は終わる。


印象的な作品であった。特に大きな事件や事態が発生するわけではなく、ストーリー展開に大きな波やメリハリがあるわけでもない。学校には自己中心的な体育教師や高圧的な校長がいるが、意図的にそれら体制的色彩をもつ学校を批判するわけでもなく、母や兄のありようを非難するわけでもない。ビリー自身にも少年らしいずる賢さがある。

何かを否定して何かを主張するという手段を、この映画はとらないのである。母にしても兄にしても、クラスメイトや教師たちにしても、あるべき姿ではないことをそのまま描写し、それにより観る側の認識にうったえかけようとするのである。これを映画上でのリアリズムというのなら、そのとおりなのであろう。


ビリーにしても、ビリーはかわいそうな存在である、などという描きかたはしない。一個の少年として、その日常をありのままにとらえるのみである。それでも、あるいは、それだからこそ、ビリーなりのハヤブサへの関心・慈愛、他者に対する反発や怒りなども、そのままに描かれる。「ケス」を初めて飛ばし、戻ってきたときなども、遠景から捕えるだけで、ビリーが大喜びしたとか感動したとかの表情をアップで挟んだりもしない。


カメラは、炭坑町の風景をフレームに入れることを忘れない。冒頭、ビリーがアルバイト先の新聞店に向かうときにも、町の光景が映し出される。ビリーがさまよう森やハヤブサの飛ぶのを見かける草原、ビリーが<ケス>を飛ばすシーンなども同様だ。ビリーの<いま・ここ>は、常にフレームのなかにあるのだ。


ビリーに対する数少ない理解者である国語の教師は、「事実と虚構」と板書してある授業のなかで、生徒に「過去の事実」を話させる。ビリーも当てられるが、特にないといった返事をした。他の生徒に言われてハヤブサを調教していることが明らかになると、教師はビリーに教壇に立たせ、その調教の話をさせる。ビリーはやや興奮気味に、自らにかかわる「事実」を話す。ビリーが調教にかかわる特殊な言葉を使うので、教師はその言葉を板書させる。例えば、jesses(足緒、jessの複数形)。ビリーがほとんどまくし立てるように「ケス」の調教のプロセスを話すこのシーンは、本作品の圧巻であろう。


ビリー役のデヴィッド・ブラッドレイの容姿や体格が、内容にぴたりと合致している。少年ものはやはり、少年の顔と体格による存在感が出来を左右する。


ビリーのとって「ケス」とは、ビリー自身が語るように、ペットではなく、飼いならす対象でもなく、自由に空を飛んでくれればいい相棒であった。

本作品のテーマは田舎町の少年のほんの一時期の物語である。しかしあの終わりの描写のしかたが、却って後々まで心に残るのである。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。