映画 『異端の鳥』

監督・脚本:ヴァーツラフ・マルホウル、原作:イェジー・コシンスキ、製作:ヴァーツラフ・マルホウル、撮影:ウラジミール・スムットニー、主演:ペトル・コトラール、2019年、169分、チェコ・スロバキア・ウクライナ合作、インタースラーヴィク・ドイツ語・ロシア語、原題:Nabarvené ptáče(The Painted Bird)(=ペンキを塗られた鳥)、R15+指定


第二次大戦下、ある東欧の共産圏の国の田舎町から始まる。10歳ほどのユダヤ人の少年(ペトル・コトラール)が片田舎の叔母の家に疎開していた。ユダヤ人狩りを恐れた両親が、息子だけを叔母の家に疎開させていたのだ。叔母が急死し家も全焼したことで、少年は、放浪の旅に出ることを余儀なくされる。しかし、田舎の人々の間でもユダヤ人に対する差別は過酷且つ残酷で、暴力を振るわれた少年は、以降口数も少なくなってしまう。

冒頭から、各章ごとに、マルタ、オルガ、ミレル、ハンス、レッフとルドミラ、ハンス、司祭とガルボス、ラビーナ、ミートカ、ニコデムとヨスカ、というタイトルが出るが、これらの人物名は、少年が放浪の末、身を寄せることになった家或いは場所において、少年とかかわりをもつ人物たちである。最後の章で、少年の父親が登場し、この少年の名前がヨスカであるとわかる。学校に迎えに来た父に、少年は素直になれず反抗する。自分一人を過酷な状況に追いやったとして、父を恨んでいるからであった。だが、母親の元へと向かうバスのなかで、居眠りする父の腕に、強制収容所で押された入れ墨を見、父親の悲惨な生活を想像する。少年にことの真相はまだわからないだろうが、その入れ墨の意味をやがては知ることになるのだろう。少年はバスの曇った窓ガラスに、「JOSKA」という自分の名前を書くのだった。


少年は放浪の末、やがては、通りかかった老人を襲撃してバッグや衣服などを盗み、自分に悪態をついた市場の商人を殺害すらする。こうして、親の思いやりとは全く別の苛酷で数奇な運命の1年余りを送ることになる。少年が体験した体の痛みや屈辱、見てきた残忍な修羅場、やらされた行為などは、統治の行き届いた国家ではありえないことばかりである。


本作品では、どの時代のどの地域の物語であるかという背景を暗示するものが語られない。ようやく中盤になって、それらしいことがわかってくる。設定が、第二次大戦下の東欧の共産圏の国のどこかであることも、このころようやくわかってくる。それでもなお、少年の行く先々での挿話をつないでいるだけなので、立体的なドラマは見られない。また、この少年のキャラクターもあまり明確ではない。冒頭の叔母の家にはピアノがあり、そこでへたくそながら「エリーゼの為に」を弾くシーンがある。この一点で、少年が都会の子であり、何らかの事情で叔母の住む片田舎に滞在せざるを得なくなっていることは想像できるが、それ以外にこの少年特有の性格や個性が明らかになる手がかりは現れない。氏名もラスト近くまで明かされない。

このような設定により、観る側は、「この少年」を、特定の地域の特定の運命を背負った少年の物語ではなく、地域、国籍、時代、或いは、性別、年齢さえも超え、人間一般を普遍化した物語にしようとしたのだろう、という良心的解釈は成り立つかも知れない。即ち、「この少年」は時代も地域も超えた「人間一般」なのである、と。残忍ないじめや、顔を背けたくなるようなシーンであっても、映画のなかだからここまでのギリギリのカットでの提供で済むが、現実の人間の世界は、戦時中であると否とを問わず、もっと過激で悲惨なものであるのだ、と。


本作品は、必ずしも反戦映画ではなく、ホロコーストによる悲劇だけを描いた映画でもなく、時代を超越した普遍的な物語を撮りたかった、と、監督自らがあるところで述べている。暗闇と光、善と悪とのせめぎ合い、まともな宗教と単に組織化された因習にとらわれた信仰、こうした相反するものに苦しむ人間の物語を描きたかった、という。

それならば、なぜホロコースト被害をまともに、しかも、一人身に受ける10歳の少年が設定されなければならなかったのか、映画や映像に反映されていなければならない。残虐なシーンを挿入するには、それだけの意味がなければならない。


本作品は、見方を替えれば、この少年の一年余にわたる「ロードムービー」である。「ロードムービー」は退屈である。なぜなら、そこに、映画上のドラマがないからである。近所のおやじが撮影し編集した自分の日本一周自転車旅行を観せられているのと同じで、そのおやじのことをよく知っている家族や友人が見るのにはふさわしいだろうが、他人には退屈を強制する。それと同じことだ。ここにも、監督が脚本を兼ねた場合の弊害が現われている。ひとりで両方やるとこうなる、というよい例だ。

それぞれの章における挿話は異なっていても、章から章へという並列つなぎのつくり自体に、早い段階で本作品の鑑賞に、忍耐力が必要だということがわかってくる。


邦画タイトルの鳥という字の右下にあるのは、赤い小さな鳥が翼を広げて飛んでいる姿である。英語版の The Painted Bird(=ペンキを塗られた鳥)は原題どおりだ。ある章で、少年は、小鳥の売買をしている年寄りのところに世話になる。この老人のところに、女が籠に入れた小鳥を持ってくる。あとで私を満足させてほしいという意味である。その後実際、雑草の生い茂る中で老人は女の豊満な乳房をしゃぶりまくる。その後老人は、その小鳥の翼を少年に広げさせ、そこにペンキを塗る。そしてそれを、その仲間が群れ飛ぶ中へと放してやる。一見善意の行為であるかに見えたが、次の瞬間、それは悪意であったことがわかる。なぜなら、色の違う鳥は、仲間の鳥たちから総攻撃を受け突っつかれ、死んで地べたに落ちてくるからである。これが老人の楽しみだった。少年はその小鳥を拾い、何をか思う。これが本作品のタイトルの由来だ。邦題もその意味を汲んでつけられたのだろう。


登場する人物はみな、ひと癖ある大人たちだ。唯一まともなのは司祭(ハーヴェイ・カイテル)くらいである。司祭は少年を引き受け、教会の手伝いをさせる。教会によく来る顔馴染みの敬虔な男が少年を引き取りたいということで、司祭は少年を男に委ねる。しかしこの男はペドフィリア(小児性愛者)であり、少年を犯すのである。


本作品の映像は、いずれのシーンもまことにきれいだ。故意に白黒で撮られた作品でありながら、それだからこそ、挿入される美しい映像が映えている。しかし、美しい映像の挿入だけでは、映画としてのエンタメ性を補うことはできていない。物語と映像の両輪釣り合ってこそ、映画としてのうったえかけができるということを改めて思い知らされた映画であった。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。