監督・製作:ロベルト・ロッセリーニ、脚本:ロベルト・ロッセリーニ、カルロ・リッツァーニ、マックス・コルペット、撮影:ロベール・ジュイヤール、編集:エラルド・ダ・ローマ、音楽:レンツォ・ロッセリーニ、主演:エドモンド・メシュケ、エルンスト・ピットシャウ、78分、1948年、イタリア映画、原題:Germania anno zero(ドイツゼロ年)、配給:イタリフィルム/松竹洋画部
ロッセリーニにとっては、『無防備都市』(1945年)、『戦火のかなた』(1946年)に次ぐネオレアリズモ映画の時代の作品。音楽のレンツォ・ロッセリーニは、実の弟。
第二次世界大戦敗戦二年後、廃墟と化したベルリンが舞台。オープニングに続き、「イデオロギーの変更は犯罪と狂気を創り出す。それは子供の純真な心までも」という文が出て、本編に入る。
廃墟となったベルリン市街が映され、やがて墓地で穴を掘る作業現場へと落ち着く。
12歳の少年エドムント・ケーラー(エドモンド・メシュケ)も墓掘りの仕事をしていたが、15歳になっていないことがばれ、大人たちから仕事泥棒だと言われ、追っ払われる。
エドムントは、病床にいる父(エルンスト・ピットシャウ)、兄カール、姉エヴァと、大家やその他の家族と古いアパートに住んでいる。カールは元ナチ党員であることが発覚することを恐れ、警察にばれないよう、定職につかず家に引きこもっている。エヴァは夜のキャバレーに出かけて男相手の接待をし、家計を助けている。収入の乏しい一家にあって、エドムントは学校に行かず、何とか家計の足しにしようと、できることをしようとするが、何かとうまくいかない。・・・・・・
『自転車泥棒』(1948年)同様、敗戦後の人々の暮らしをリアルに描いた作品ではある。本作品は、『自転車泥棒』のように父子に照準を定めず、エドムントという少年とその周辺の出来事を、少年の目線で浮き彫りにしている。
とにかく貧乏で、食べる物にさえ困窮している家族や、大人なちの都合の良い判断や、泥棒仲間たちの勝手な行動など、街の荒(すさ)みようは、そのまま人々や少年の心の荒みようと比例している。そこには、人間らしい良心や思いやり、親切心などは見られない。自分たちが生きていくためには、子供の心を踏みにじろうが子供を騙そうが平気なのである。
ついにエドムントは、一時入院した父を見舞ったときにくすねた劇薬を紅茶に入れ、自宅療養となった父に飲ませて毒殺する。こんな状況下であるから、詳しい死因なども調べられず、棺に入れられ、墓地へと運ばれる。エドムントの行為は誰にも気づかれなかったが、良心の呵責もあり、これ以上の日々の生活を続けたところで希望もないと判断したのか、棺が運ばれたるのを向かいの廃墟から見たあと飛び降りて死んでしまう。
父の死亡が家族に知れてから、エドムントは、知った場所をとめどもなく歩き回り、最後にアパートの向かいの廃墟に辿りつくのだ。この間の数分間のエドムントの描写には、台詞も独白も挟まれない。せいぜい、教会から、オルガンで弾かれるヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」が聞こえるくらいだ。
冒頭近くにも、墓を追い出されたエドムントが、かなり長く歩くシーンが描かれる。このときの颯爽とした歩き方は、飛び降りる直前までの歩く姿とは正反対であった。墓掘りの仕事を追い出されても、まだ自分には<何かできる>のではないかという「希望」があった。貧乏であっても、悪いことであっても、大人に騙されても、まだ<何かできる>ことがあった。しかし、近所迷惑であり、治る見込みもなく、自ら「死にたい」とばかり口にする父を毒殺してからは、もはや<何かできる>こともなくなってしまったのだ。
本作品は、時代の産物でありながら、ある時代・ある時期・ある場所の少年の生きざまを率直に描いた作品として、今日においてなお、意味をもつ作品である。
音楽は、オーケストレーションを伴う曲が挿入され、ところどころ打楽器が効果的に使われている。重厚な音楽にも注目しておきたい。
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