監督:マリオ・バーヴァ、脚本:ロマノ・ミグリオリーニ、ロベルト・ナタール、マリオ・バーヴァ、撮影:アントニオ・リナルディ、編集:ロマーナ・フォルティーニ、音楽:カルロ・ルスティケリ、主演:ジャコモ・ロッシ・スチュアート、エリカ・ブラン、1966年、84分、カラー、イタリア映画、製作:Naor World Media Films,Inc.、原題:Operazione paura(操られた恐怖)、米国公開時タイトル:KILL BABY... KILL ! / CURSE OF THE LIVING DEAD
古い建物の散在するイタリアの辺鄙な村に、検死官エズウェイ(ジャコモ・ロッシ・スチュアート)が馬車で到着する。御者は、こんな村には入らないほうがよいという。エズウェイの目的は、若い女が不可解な死を遂げたので、解剖してその死因を調べてほしいと、署長のクルーガーから依頼されたからであった。古いホテルに着くと、そこにいる人々は異様な表情でエズウェイを見た。署長に会うとそこに村長のカールもいて、死体の解剖などしないほうがよい、この村では頻繁に若い女が不可解な死を遂げており、人知ではわりきれぬ力が作用しているようだ、と言う。・・・・・・
いわゆるゴシックホラーの典型的映画だ。この作品が多方面に影響を与えたという点で、ゴシックホラーの嚆矢とも位置付けられている。この後、ストーリー的にも映像的にも新たな試みや優れた作品が誕生した。それだけに、それらに比較してしまうと本作品は、エチュード的なレベルに留まっている感は免れない。だが、当時として大いなる冒険を実現したことも認められ、むやみに残酷なシーンを映さない配慮もあり、一定の水準内で描き切ろうとした努力はうかがわれる。
Paura(恐れ)という語が何度も出てくる。アメリカ版のタイトルの意味も、半ばあたりから明らかになってくる。ストーリー展開として、ラスト近くに、頻発する若い女の死の原因が明かされるパターンが明かされる。これをシンプルに過ぎるとして、その後のホラー映画がストーリー運びに変化を加えていくのは、本作品を踏み台にできたからだろう。悪霊を操るのはグラプス婦人ということに落ち着くかと思ったが、実は彼女でさえ力の及ばないところで、彼女は何者かの力でそうせざるを得なくなっていたことが明かされる。
不幸な死を遂げた少女が、後半、時折姿を現わすようになる。窓に顔が浮かんだり、その手だけが窓を這うようすも出てくる。この子の存在の証しとして、鞠がはねるようすも何度か出てくる。子供が何かしているのだろう、と初めて予感させるのは、カメラがブランコに乗っている少女の目線になっているときだ。このシーンはじめ、カメラが同一場所から遠近を撮るシーンは効果的だ。
少女の霊のしわざであるからといって、不可解な現象を何でも突っ込むのではなく、小出しに少しだけ見せていく展開はよい。あるいは、それが製作の限界だったのかも知れないが、かえって抑制された感があってよい。
登場人物の女性は、少女役も含め、みなきれいな女優やかわいい少女を起用している。ホラーにはきれいな女性やかわいらしい少女が登場しなければならない、という約束事がつくられたのも、本作品の影響だろう。
村人の恐怖感、その原因、さらに続く死、これらと真正面から格闘するエズウェイら、……人物の登場のテンポ、死の真相に近付いていくテンポが、一定の速度でよい。また、セット撮影が多いなかで、カメラがよく動いているのもよい。建物内、村の通路、グラプスの館内など、いかにも18世紀の建物や調度品を再現させたのも、タイムリーに挿入される音楽とともに、雰囲気づくりに貢献している。
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