映画 『誓いの休暇』

監督:グリゴーリ・チュフライ、脚本:ワレンチン・エジョフ、グリゴーリ・チュフライ、撮影:ウラジーミル・ニコラーエフ、エラ・サヴェリエワ、編集:マリーヤ・ティモフェイェバ、音楽:ミハイル・ジフ、主演: ウラジーミル・イワショフ、1959年、88分、製作会社:モスフィルム、ロシア語、原題:Баллада о солдате(=兵士のバラード)


第二次大戦只中のロシアでのストーリー。公開されたのは、フルシチョフがアメリカやフランスなど資本主義諸国との平和共存外交を進め、ソ連の指導者として初めて米国を公式訪問した年でもある。


第一線で敵と向かい合う19歳の通信兵アリョーシャ(ウラジーミル・イワショフ)は、仲間がみな殺され、敵の戦車が迫り、ひとり逃げまどうなか、捨ててあった対戦車ライフルを使い、敵戦車2輌を撃破し他の戦車も退散させた。この功労により名誉の勲章をもらうことになったが、受勲のかわりに故郷にいる母に会い、自宅の屋根を修理してきたいと願い出、将軍(ニコライ・クリュチコフ)から計6日間の休暇をもらう。アリョーシャの故郷は、前線から遠い村で、片道に二日間はかかるところであった。

車で進撃部隊と逆方向に向かう途中、川にはまり、押してくれた仲間の一人から、その妻宛ての手紙と贈り物の石鹸を託される。駅では片足となり松葉杖を使う復員兵(エフゲニー・ウルバンスキー)の荷物を持ってあげるなどしたため、列車を一本乗り過ごしてしまう。軍用貨物列車に乗り換えようとしたところ、哨兵と言い合いになったが、持っていた缶詰を差し出し、やっと乗り込むことができた。途中の貨車が停車すると、シューラ(ジャンナ・プロホレンコ)という少女が乗ってきた。・・・・・・


冒頭、向こうから一人の女性が歩いてくる。アリョーシャの母(アントニーナ・マクシモワ)だ。明るく元気な娘たちとすれ違う。赤ん坊を抱いた女性とすれ違ったときは、赤ちゃんに作り笑顔を見せるが、それきり憂鬱な顔となる。そして、遠くに伸びる一本の道が映し出され、戦争に行く者も戦争から帰ってくる者もこの道を通る、というナレーションが入り、アリョーシャは二度とここに帰って来ない、つまり戦死したことがわかる。この母でさえ知らないエピソードをご覧に入れるとナレーションがつづき、本編に入る。


本作品の特徴は、アリョーシャが大幅に遅れはしたものの、どうにかこうにかして一度はこの故郷に戻り、母と会えた点だ。だがそれも、すでに6日目であり、数分間母と抱き合い、言葉を二言三言交わしただけで、すぐ前線に戻らなければならぬという慌ただしい再会であった。そして、それが息子の最後の帰郷となったのである。


ストーリーのほぼ中央の半分近くは、アリョーシャとシューラ二人を中心とするシーンである。乗り込んだところに若い男がいたため、初めは怖じ気づいたシューラであったが、互いに自己紹介し、アリョーシャからもらった食物をシューラが食べることから仲良く打ち解け合っていく。仲間から渡された手紙と石鹸も、いっしょに届けにいく。いよいよ別れの時が来て、アリョーシャは、ぶら下がるようにして乗り込み、走り去る汽車から、残されたシューラに、大声で住所を言うが、騒音に掻き消されてしまう。ほんの一時の淡い恋もすでに思い出とせざるを得なかった。


シューラに出遭う前の復員兵との話は、ストーリーが進んでいく前のアクセントになっている。この男は、片足を失ったため除隊となり故郷の妻の元へ帰る途中であった。だが、あらかじめ電報を打ちに郵便局に寄ったところ、なかなか出てこないのでアリョーシャが駆け寄ると、元々不仲であったから、いまさら、ましてこんな姿で戻ったところで意味がない、などと言う。受付の女性はそれを聞いて、そんなはずはないと嗚咽する。アリョーシャも男と話しているうちに列車に乗り遅れてしまうのである。

目的地に着き、ホームで待っていると、男の妻が現われ、帰りを待ち望んでいたと言い、夫婦で抱き合う。男がふとまわりと見回したが、アリョーシャの姿はなかった。


この夫婦の抱き合うシーン、ようやく帰郷したアリョーシャと母が抱き合うシーンは、恋愛映画でカップルが抱き合うのとはわけが違う。それなりの表情、泣きかた、抱きすくめかたであり、極めて難しい演技を求められるが、すばらしいシーンができた。


若いアリョーシャは結局、二度と母の元へ帰ることはできず、淡い恋も束の間の幻のように消え、前線の露と消えたのである。

一人の若い兵士の帰省という例外的な時間をテーマとし、この若者の他人に対する親切心や心やさしさを具体的に描写し、戦争という現実に対し、暗に批判を込めた佳作となった。

原ダイトルを訳すと、「兵士のバラード」となり、そのとおりの内容であるが、「誓いの休暇」とした邦訳のほうがすばらしいと思う。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。