監督:スティーヴン・クォーレ、脚本:エリック・ハイセラー、製作:クレイグ・ペリー、ウォーレン・ザイド、撮影:ブライアン・ピアソン、編集:エリック・シアーズ、音楽:ブライアン・タイラー、主演:ニコラス・ダゴスト、2011年、92分、配給 ワーナー・ブラザース、原題:Final Destination 5
シリーズのラストとなる作品。第1作から第5作までは、
第1作 『ファイナル・デスティネーション』(2000年、原題:Final Destination)
第2作 『デッドコースター』(2003年、原題:Final Destination 2)
第3作 『ファイナル・デッドコースター』(2006年、原題:Final Destination 3)
第4作 『ファイナル・デッドサーキット 3D』(2009年、原題:The Final Destination)
第5作 『ファイナル・デッドブリッジ』(2011年、原題:Final Destination 5、本作品)となっている。
このシリーズはホラー・サスペンスに分類されるが、共通点としては、観る側に、本格的に恐怖や戦慄を味わわせるより、次に何が起きるか、正確にいえば、次に誰が・どうやって死ぬか、という興味をもたせるところであって、実に興味本位な内容なのである。
飛行機事故や自動車事故、落下物による死亡事故は現実にあることだが、その悲惨さによる家族や友人の心配にはほとんど触れず、いきなりやってくる惨殺そのものに焦点を当てた興味本位の映画なのである。そう、実に悪趣味で不謹慎な内容なのであるが、サスペンスなりホラーなりという虚構の観点からはエンタメ性をもっているのだ。
アクション映画においても同じことで、殴り合い・殺し合いは、平穏な日常のなかにあっては忌み嫌われ非難されるが、映画のなかでは、エンタメ性という魅力に変化するのである。
人類の歴史は、破壊と創造という二本の糸で撚(よ)られてきたある。そこには政治的権力が必ず介在するのであるが、破壊であれ創造であれ、最後にそのエネルギーを供給するのは、人間個人の本能的欲求なのである。食べたいから殺すのであり、作りたいから壊すのであり、一見矛盾するような相反する方向に進むベクトルは、人間というそもそもが矛盾した存在からすれば、一枚の平面の上に何の不思議もなく交互に現れるのである。
各話のなかに、死神は騙されない、といった台詞も出てくるが、死そのものは、いつどこで起こるかわからない、という点は真実なのである。
本作品シリーズは、甚大な事故による自分たちの死を予知夢として見た主人公が、似たような状況に気付き、危機一髪で仲間を募って早めにそこから立ち去ったものの、死神は執拗で、助かった者も、その後の生活のなかで、死んでいくべきだった順に死んでいく、という共通点をもっている。
それゆえ、観る側は、死ぬ順番は話の途中で主役やそのガールフレンドとの会話で明らかにされるが、そうした順番よりも、確実にそろそろ次に誰か死ぬだろうという予想を立てることができる。つまり観客は、優越感をもって観続けることができるのである。
創造より破壊のほうが、時間的には一瞬のことであり、各作品とも、死亡の瞬間の撮影には力を入れている。本作品のエンディングにおいて、いままでのシリーズで出てきた死亡シーンが次々に流されるが、そこには同じようなシーンは一つもない。また、そろそろこれが原因で事故発生かと思わせておいてフェイントをかけるシーンもある。本作品も、橋の崩壊から始まり、鉄棒事故、マッサージ店での火災、眼科での事故、と死のヴァリエーションに富んでいる。
ストーリー性もほとんどなく、映像も並列つなぎという、映画制作としては失敗作の条件をもちながら、それでも人気を失わないのは、人間本能にうったえるシーンが、タイムリーな間隔で用意され、観る側の期待を裏切らないからだろう。YouTube での交通事故や、爆発、ビル倒壊、地震の映像は、何十万回と見られている。グロ画像のサイトも、ひとつ消えてもまた別のサイトが現われる。
本シリーズは、『13日の金曜日』シリーズなどとも異なっている。怖いもの見たさ、という人間の単純な欲求に応える意味で、惨殺シーンが見せ場となる点は共通しているが、スラッシャー映画ではなく、終盤に殺戮の山場がくるという展開でもなく、舞台も、周囲に人気のない山中や湖周辺ではない。こちらのほうは、滑稽さや軽快さ、都会性も包含しており、その死の瞬間も、実に<鮮やか>なのである。
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