監督・原作:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆、撮影:高羽哲夫、編集:石井巌、音楽:山本直純、主演:渥美清、1977年、95分、配給:松竹
とらやの二階に島田良介(中村雅俊)という若者が間借りしているところへ、寅(渥美清)が帰ってきてひと悶着あり、良介は出て行く。その後、パチンコ屋で偶然出会い、意気投合して酒を飲んで一緒に帰ってきて、寅は良介が間借りすることを認め、自分は物置き部屋に寝る。翌朝、寅が昼飯をとりに入った食堂には、たまたま良介も昼を食べにきていた。そこには幸子(大竹しのぶ)という娘が甲斐甲斐しく働いており、良介は幸子にぞっこんだったのである。それを知った寅は、良介が口下手なこともあり、二人の恋愛がうまくいくようにと恋の指南役を買って出る。・・・・・・
前半は良介と幸子の仲介役だが、後半からは、長崎県の平戸に帰った良介を追って寅も平戸に来るので、良介の姉・藤子(藤村志保)と寅の物語がダブって描かれていく。寅は例のごとく、藤子に一目惚れしたのである。そして最後の舞台はいつものようにとらやに戻るパターンで、寅の恋に終止符が打たれる。
『男はつらいよ』の第39作までのほとんどを観てきた。毎年2本ずつ作られたから、どうしてもそれぞれを比較してしまう。39作のうちの何作かは大変好きな映画である。しかしこのシリーズのどれについても、今まで一度もレビューしてこなかった。本作品は好きなほうの一つである。
このシリーズは、正直者で剽軽でもある寅次郎を中心とした人情ドラマであり、そこに寅次郎の恋の相手(マドンナ)が登場し、最後には寅がフラれるという筋書きだ。ロケ地は、一作ごとに日本の一道府県を巡り、各地の風景や季節感を盛り込むのが慣わしともなっている。
私が中高生のころ、寅さんを観に行こうと父によく連れて行かれた。母は寅のような人間が好きではないとして、一度も一緒に行かなかった。高校生のころの私にとっても、母とは違う理由からではあったが、寅さんの映画は好きになれなかった。人情にほだされる人間は弱い人間だ、などと勝手に思い込んでいたからである。どうしてこのシーンでまわりの客が、ハンカチを取り出すのかわからなかった。理屈としてはわかるが、自分には特に感動するようなシーンでもなかったからだ。せいぜい、物語はうまくできているなあ、と思うくらいのことで、いい年した男(=寅次郎)が、若くてきれいな娘に恋をするという設定自体が、何だか不潔に見え、ありえないことであり、ばかばかしく思えたのである。
30代になって以降、ときどき観ることがあった。10代のときとはかなり異なる感想をもった。日本の四季折々の風景をふんだんに取り入れ、毎回違う都道府県が舞台となる。一方にとらやがあり、一方に寅の旅先がある。一方に寅とマドンナのやりとりが置かれ、一方にさくら(倍賞千恵子)たちとらやの人々の反応が置かれる。うまく行くかなと思わせて、寅としては盛り上がるが、やはり失恋に終わってしまう。すると寅は必ず、すぐにまた旅に出て行く。二つの軸を、それぞれの風土や風景を取り混ぜて、ストーリーが進んでいく。
もう一つは、人間にとって旅とは何か、を問いかける映画だということだ。寅は自由業という設定だが、それだけに、時間や組織や決まりに拘束されず、いつでも自由に遠くに出かけられる。失恋のあと出て行く寅をさくらが引き留めるとき、そうしたいのはやまやまだが、それができないのが渡世人の辛いところよ、と寅は答え、去って行く。
渡世人は自分で選んだ道だから仕方ないとしても、我々はみな、旅に出たいという願望を心に持っている。それは、カップルでの旅行や家族旅行といったものではない。特に男には、ぷらっと一人で旅に出たいと思うときがよくある。寅を見ていて、そこだけはうらやましいと思ったものだ。
日本という各地の風土と祭祀が取り入れられ、男女の微妙な気遣いが描かれていく。コメディのようであるが、シリアスなシーンとの滑稽な部分との揺れを何層にも用意してある脚本に、撮影所仕込みの照明、カメラワーク、俳優の滑舌のよい台詞回しが加わり、大いなる人気シリーズとなっていった。特に男にとっては、恋をする気持ちのさまざまなヴァリエーションを垣間見られる作品でもある。それは寅自身の恋の場合もあるし、本作品のように、別の男の恋の指南役としての場合にもみられる。
なぜ、寅とさくらでなければならなかったのか。ダメな兄としっかり者の妹とう組み合わせが土台になければ、寅次郎の物語は成立しないのである。元々はテレビ番組がルーツであるが、設定自体は最初からこうだった。兄と弟のどちらかが寅、姉と弟の弟が寅では、ドラマとして成立しにくいのである。つまり、寅でないもう一方が、寅でないほうの兄、寅でないほうの弟、寅をもつ姉では、あまりにも<道徳的>な兄弟という土台が出来過ぎてしまいがちだからだ。
監督の山田洋次は日本共産党の支持者であり、つまり共産主義者である。倍賞千恵子その他常連メンバーの多くもそうであり、マドンナ役でも吉永小百合など共産党支持者が多い。古今東西を問わず、映画・演劇にかかわる者はそうした傾向をもっている。特に日本の場合、戦中は共産党支持者はアカ分子ということで、思想上の取締り対象でもあった。戦後、米国の都合とその考え方により、米国産日本国憲法に思想信条の自由が盛り込まれ、謳歌された。それにより、虐待を受け続け、あるいは、おとなしくしていた共産系の映画人・演劇人が、進んで堂々と作品を制作するようになったのである。現在でも、個人の思想信条のことでもあり表立ってアカ的発言をする映画人は少ないが、実際のところ動きをみていればコイツもそうだな、と思われる監督・俳優は多い。
しかるに、出来上がった作品は、それとして観るべきであり、楽しむべきである。レビューや批判は、作品に対し向けられるべきであって、監督や俳優その他スタッフの個人思想に向けられるべきではない。
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