監督・脚本・製作:グザヴィエ・ドラン、撮影:ステファニー・アンヌ・ヴェバー・ビロン、編集:エレーネ・ジラール、音楽:ニコラス・サヴァー=レアビエ、2009年、103分、カナダ映画、フランス語、原題:J'ai tué ma mère(私は母を殺した)
カナダ・ケベック州での話なのでフランス語。
ユベール(グザヴィエ・ドラン)は、母・シャンタル・レミング(アンヌ・ドルヴァル)と二人暮らしをしている16歳の少年、父親は離婚していてよそに住んでいる。朝食の食べ方が汚いなどと朝から母に細かく文句を言うユベールに対し、高校生なのに母は、出勤ついでにユベールを学校まで車で送る。だが、車内でもいろいろ親子喧嘩をする。ユベールにはゲイえ、アントナン(フランソワ・アルノー)と交際している。
こうして、日々の母との生活は、母親として当然に好きでもあるが、同時に、何かと行き違いがあり口論を繰り返す毎日だ。ついに母は、元夫と相談し、いなかの寄宿舎に入れてしまう。そこでもゲイ友達はでき、ドラッグも経験する。一度、突然自宅に戻り、母と話すが、しばらくすると学校から失踪してしまう。校長から、母に宛てた置手紙には、もし僕に話があるならあの王国にいる、と書かれていた。そこは、親子3人で住んでいた河の畔にある家で、ユベールが子供の頃、母とよく遊んでいた場所だった。
おそらく、この若い監督の自伝をモチーフにした、いわゆるドキュメンタリータッチの映画で、ストーリー性やドラマ性はなく、そのつどの母子や友人との対話を並列つなぎした映画だ。
母と思春期・反抗期にある少年の口論シーンが多いが、これこそ作り手が力を込めて作った部分であろう。ところどころに、現在その時のユベールの気持ちや気分を表した引用句や、イメージ画像が挿入され、それらの会話を画像で補強している。手段としてはシンプルなつくりだ。
これらの創作によって、作り手は何を伝えようとしたのか。ユベールは母にいろいろ文句を言うし、そのときは本気で言っているものの、親子の間なので、やはり勢い余って感情に走るのである。だからその直後に、謝ったりもする。本当に憎んでいるのであれば、さらにモノに当たったり、母といえども暴力をふるったりしてもおかしくはない。
といって、母と子は、いろいろあっても仲良くしていかねばならない、といったような教訓めいたことをうったえようとしているのでもない。母と子はこんなことを繰り返していくのだという、一般的なありさまを時間経過とともに表したかったのであろう。
母を憎らしく思い、本当に殺すか、そこまでいかなくても、うざったい母から離れるために家を出て行くのか、という展開であれば、そこにまたドラマも生まれてくる。原タイトルは、課題作文のタイトルとして出てくるだけだ。後者については、実際にユベールが母に言い出すが、16歳で一人暮らしは認められないとして母に拒否されている。拒否されたらされたで、友人のうちに転がり込むとか、放浪の旅に出るとかいった展開になれば、そこにドラマやストーリーの展開が生まれてくる。しかしいずれにしても、ユベールは、金銭的な問題があるにしても、結果的に母、そして父の言うことに従うのである。
そうした方向にもっていかなかったのは、監督がまだ若く、そこまで書くことができないからではなく、初めからそういう意図がなかったからである。ある母と子のやりとりを<記録映像>を提示するのが目的だったからだ。
ということで、新星誕生などどもてはやされているが、映画としては、それなりのエネルギーを傾注したにもかかわらず、エンタメ性は初めからありえず、母とのアンビヴァレントなやりとりに終始する男子高校生ユベールのルーティーンを、多少の個性的アイデアを用いて描写したに過ぎない作品となっている。
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