監督:ウィリアム・ワイラー、脚本:ジョン・コーン、スタンリー・マン、原作:ジョン・ファウルズ、撮影:ロバート・サーティース、ロバート・クラスカー、編集:デヴィッド・ホーキンス、ロバート・スウィンク、音楽:モーリス・ジャール、主演:テレンス・スタンプ、サマンサ・エッガー、1965年、119分、配給:コロムビア、原題:The Collector
ロンドン郊外が舞台となっている。銀行員フレディ・クラッグ(テレンス・スタンプ)は、蝶々を採取して展翅するのが趣味であった。ある日、人里離れたところで蝶を採っていると、古い屋敷が売り出されているのを発見する。その屋敷は、本館とは別に、やや離れたところに、地下室が付いていた。地下室といっても中に入ると、大きな空間のある洞穴のようであり、出入り口はそこしかなく、窓もなかった。たまたま、サッカー籤で71000ポンドもの大金が当たったことを親戚のおばから知らされ、その屋敷を手に入れる。
以前から好意をもっていたブレイク美術学校の生徒、ミランダ・グレイ(サマンサ・エッガー)を車で尾行し、クロロホルムを湿らせた布を口に当て気絶させ、地下室に連れてくる。ミランダが目を覚ましたとき、フレディはトレイに食事をもって運んできたところだった。・・・・・・
久しぶりに観た。ウィリアム・ワイラーのサスペンスものとしては、『必死の逃亡者 』(1955年)のように悪が倒れて終わるのではなく、『噂の二人』(1961年)のような悲劇を迎える終結となっている。といっても、本作品では、悲劇を迎えたのはヒロインのほうだけで、悪は今後も続いていくことを暗示して終わっている。
いろいろなジャンルの映画を撮ってきただけあって、単なる誘拐監禁ものでなく、そのつどのシチュエーションをきちんと作り上げている。それは台詞であり、一歩一歩一定の速度で進むストーリー展開であり、カメラワークであり、撮影時のライティングであり、もちろん俳優の演技力によるものだ。
フレディの目的は、ミランダを性的に犯すことではなく身代金を要求するためでもない。以前、同じバスに乗り合わせたなどの理由でミランダに親近感を抱くが、レディング大学の教授の娘ということを知り、そういう知識階級の人間には通常の手段では近付くことはできないと判断し、拉致監禁に走ったのである。ミランダを<理想の相手>として、自分の支配下に置き、自身の<理想の共同生活>を送るためである。ミランダが気が付いたとき、閉じ込められている地下室内を見るが、洗面台、トイレ、ストーブがあり、衣装棚には、彼女のサイズの服がたくさん掛けられ、美術に関する図書までも揃えられていた。フレディが食事を持ってくるときには、執事のようにスーツの盛装で、身なりだけは紳士そのものであった。
何とか逃げ出したいミランダは、フレディに目的を訪ねる。フレディが言うには、自分はミランダを尊敬している、しばらくこういう生活をしていれば、自分のことを理解し、いずれ気持ちが通じ、自分と結婚するようになる、ということだった。ミランダには無論そうした気持ちはないので、期限を決め、それが過ぎたら出て行かせてほしい、と要求する。二人はようやく、4週間後の6月11日を期限とすることで<合意>する。
ミランダは、いい加減に外の空気を吸いたいし、風呂にも入りたいというので、両手を後ろに縛った状態で、本館2階の風呂場まで行く。鍵はなかったが、外にはフレディが座っていて監視している。そのとき、たまたま近隣に住む年寄りが来訪し、フレディは浴室内でミランダを縛り上げ、客に応対する。ミランダはこのときとばかり、足を伸ばして蛇口を目いっぱいひねり、バルタブから湯を溢れさせ、湯は浴室から出て、廊下にまで流れ出す。年寄りは誰かいるのかと疑うが、フレディはうまくごまかして隣人を帰す。
その後、落ち着いたミランダは、フレディの案内で、蝶の標本がぎっしりと飾られているへやに案内される。それを見てミランダは、私も蝶と同じようになる、と不安になるが、実際、そのとおりとなってしまうのである。
フレディは言うまでもなく犯罪者であり、ミランダは被害者である。警察やミランダの家族の動きなどに一切触れず、あたかも舞台劇のように、二人だけを中心に据えただけで、これだけのドラマ性を持たせているのは、監督の手腕というほかない。ふつうであれば、中盤あたりからダレてきてしまってもおかしくない物語である。ヒッチコックらの作った映画とも違い、真剣さそのものでどこまでも押し通しつつ、しかもエンタメ性を確保するのは至難のわざであろうと思う。
『顔のない眼』(1959年)、『史上最大の作戦』(1962年)、『アラビアのロレンス』(1962年)などで知られるモーリス・ジャールの音楽にも注目しておきたい。
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