監督・脚本:ジョン・カサヴェテス、製作:モーリス・マクエンドリー、撮影:アル・ルバン、編集:モーリス・マクエンドリー、アル・ルバン、美術:フェドン・パパマイケル、音楽:ジャック・アッケラン、主演:ジョン・マーレイ、ジーナ・ローランズ、1968年、130分、配給 Continental Distributing、原題:Faces
映画製作会社の社長(と思われる)リチャード・フォースト(ジョン・マーレイ)は、女友達で娼婦のジーニー(ジーナ・ローランズ)宅に行き、友人フレディとともに酔っ払って大騒ぎしてじゃれ合う。フレディのひと言で気まずくなった二人は帰る。フレディが帰ると妻マリア(リン・カーリン)は長電話していたが、それを切らせ、食事する。マリアは、知り合いの夫が、夜な夜な寝言まじりに、愛人の女とセックスする夢をみるようだ、と話し、二人は高笑いをする。
翌日もまたリチャードはジーニー宅にいた。マリアは友人たちとディスコに飲みに行き、そこで知り合ったチェット(シーモア・カッセル)を自宅に呼び、ひと夜を過ごす。翌朝マリアは、自責の念から睡眠薬を飲んで倒れていた。チェットは薬を吐き出させ、介抱していた。そこに上機嫌で朝帰りしたリチャードは、窓から男(チェット)が逃げていくのを目撃し、マリアを責め立てる。しかし、もはや、二人の絆は元に戻ることはないことを暗示して、映画は終わる。
大筋はこんなところであり、そこにさまざまな状況やら会話やらが修飾されている。冒頭に、リチャードを中心に、映画の試写会が催されるシーンがあり、その映画が本作品の本編となっている。
俳優であったジョン・カサヴェテスが製作したはインディペンデント映画、つまり自主製作映画である。自主制作映画は予算に限りがあるため、まず、どうしてもロケ地やカメラワークに制限ができる。本作品もカサヴェテスの自宅をはじめ、室内シーンがほとんどで、カメラも全シーン、手持ちカメラで撮っている。手持ちだけの映画は、観ていて大変疲れるうえに、この映画の言わんとする内容からして、登場人物の顔面がフレームいっぱいに映し出されるシーンが多い。そうした制約があるために、勢い圧倒的に台詞の数とその応酬が多く、一人の人物が話し続けるシーンが多い。これが第二の特徴だ。しかも、監督が脚本を兼ねる場合には、勿体なくて自ら考えだした台詞やシーンをあまり削ることをしないので、上映時間も長くなりがちだ。自主制作映画には、こうした特徴がある。
本作品は、自主制作映画の典型であるが、軸となるストーリーに根幹があるだけマシである。リチャードとマリア夫婦の絆がどうなるか、ということで、それをいきなり出さず、酔っ払っての大騒ぎを長々とスタート直後にぶち込んだのは、あとで本筋を浮かび上がらせる意図があったからだろう。この展開はうまい。しかし、どんな大騒ぎも高笑いも、結果的に、この夫婦の溝を埋めることはなく、階段でのラストに象徴されるように、夫婦それぞれの相手に対する愛情は、階段の段差のように揃うことはなかったということだ。
自主制作映画は、以上のような理由からして、ほとんどの作品は、単なる自己満足映画に終わることが多い。本作品は、おそらくその危険性をわかって作られたものだろう。あるいは、自主制作でなければ、このような映画を撮ることは難しいと判断したのかも知れない。タイトルは Faces であるが、内容としては Phases でもよかっただろう。自主制作の強みを活かして、これだけ人物のアップを多用することで、制作意図が伝わるというものだ。
夫婦でありながら、または娼婦であっても、人に対するには、その間柄、シチュエーションなどにより、人間は相手にさまざまな表情を見せる。その相手が、妻であり、夫であり、愛人であり、客であっても、表情というのはひと通りではない。上辺を取り繕うときの表情もあれば、ホンネを剥き出しにする表情もある。この映画で監督が言いたかったのは、まさにそのあたりであろう。それだけに、登場する俳優の多くは、その表情に多くのヴァリエーションを作らなければならなかった。例えば、特に、ラスト近くのジーニーも涙は演出が効いている。リチャードと夜を過ごしたあと、キッチンから戻るとき、ジーニーはひと筋の涙を流す。好きではあっても、妻のいる男であることを思い知らされたからであろう。愛人にとっては、ともに過ごした翌朝の別れは辛いものがあるのだ。
130分の尺はやや長いのではなかったか。台詞といっしょで、上に述べたように、撮ったフィルムも、あまり削りたくないというのが自主制作の特徴である。言わんとすることが、観る側にきちんと伝わるか、そして採算がとれるか、評判がどうなるかが心配なのである。
本作品は、ストーリー展開にあらたなアイデアを持ち込み、メリハリをもたせた点は興味深いが、エンタメ性は特に味わえず、自主制作の落とし穴、つまり、ドキュメンタリー映画に陥ってしまったのもまた事実である。
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