映画 『めし』

監督:成瀬巳喜男、原作:林芙美子、脚本:井手俊郎、田中澄江、監修:川端康成、撮影:玉井正夫、美術:中古智、照明:西川鶴三、音楽:早坂文雄、主演:原節子、上原謙、1951年、97分、配給:東宝


林芙美子原作の小説を、川端康成が監修するという贅沢な作品だ。


三千代(原節子)は、大恋愛の末に岡本初之輔(上原謙)と結婚し、今は、大阪郊外の長屋に住んでいる。結婚してから5年、初之輔の転勤で大阪に来てから3年が経っていた。夫婦以外には飼い猫がいるだけだった。夫は家庭のことを顧みず、三千代はおさんどんに明け暮れる毎日であり、倦怠期に入っていた。

そんなある日、初之輔の姪・里子(島崎雪子)が家出をして東京からやってくる。初之輔は、身内ということもあり優しく接するが、自分以上に家出してきた姪に気を遣う夫に、三千代は苛立ちを覚える。里子の居候は長居となり、向かいに住む定職のない芳太郎(大泉滉)と出歩くまでになっていく。・・・・・・


里子が来た当初、せっかく大阪に来たのだからと、初之輔は里子を大阪見物に誘う。三千代も誘ったが、当日になって断る。二人が市内観光や食事をして楽しんでいるころ、三千代は家じゅうの掃除をしている。次に逆の状態がやってくる。三千代の同窓会があり、夕飯は里子に頼んでいたものの、里子は二階で寝たままで、おまけに鼻血を出すなどして、夕飯は作られていなかった。おまけに、玄関の鍵をしていなかったため、二人とも二階にいるときに、初之輔の上等な靴が盗まれてしまう。それぞれが不在の間、夫婦の一方は家のなかでどうしているか、対比的に描いている。出演シーンは二回だけだが、友人の山北けい子(中北千枝子)が生活が苦しく、駅で新聞販売をしている姿なども、よいアクセントになっている。


三千代はついに里子に、東京に戻るよう説得し、送りがてら、自ら東京の実家に寄る。といっても、南武線の矢向駅が移っている。実家には、母(杉村春子)と妹夫婦、村田信三・光子(小林桂樹・杉葉子)がいて、商売を続けていた。実家に来て、母の顔を見ると、三千代はぐっすり眠ってしまった。そこに、出張で東京に来たという初之輔が現われ、仲良く大阪に戻っていく。


倦怠期に陥った夫婦の物語で、本来なら退屈至極のストーリーになりそうだが、おそらく原作がさまざまなエピソードを語っているので、その味を損なわないように脚本化されたのだろう。川端康成が監修を務めたのもすごいことだ。


里子の来訪を機に、夫婦の間のぎくしゃくした関係が、ヨリ表に出てくるが、そこに加わる初之輔の仕事や三千代の友人との会話などが、ぎすぎすした関係を、やがて修復するほうに向かせる題材になっている。三千代の母や妹夫婦とのやりとりも、三千代にとって直接的なアドバイスにはならないが、実家に戻ることで大きな救いになっている。

といって、里子が村田家を訪れた晩、布団を敷くことについて信三が、三千代と里子に言う言葉は、辛辣に聞こえるものの、映画終盤において適切でる。


冒頭に、林芙美子の言葉が出る。「無限な宇宙の廣さの中に、人間の哀れな営々としたいとなみが、私はたまらなく好きなのだ」 夫婦間に多少のいざこざがあり、それが哀れなことであっても、こういう人々の日常にこそ私は愛着をもっている、ということだろう。


原節子と上原謙のコンビは、このあと『山の音』(1954年)でも共演することになる。上原謙は当時の二枚目ということだが、いずれの映画にも、あまり家庭のことに熱心でない役柄で、彫りの深くない容貌が役柄に似合っている。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。