映画 『クルージング』

監督・脚本:ウィリアム・フリードキン、撮影:ジェームズ・A・コントナー、編集:バド・S・スミス、音楽:ジャック・ニッチェ、主題歌:ウィリー・デヴィル「イッツ・ソー・イージー」、主演:アル・パチーノ、1980年、102分、配給:ユナイテッド・アーティスツ、原題:Cruising


ニューヨークで、ゲイの男が刺殺される事件が続いていた。最近ではバラバラにされた腕が河から上がるものの、犯人に結び付く手がかりがなく、殺人と認定する確たる証拠もなかった。そこで、殺人課の部長イーデルソン(ポール・ソルヴィノ)は、被害者と背格好や顔つきが似ているスティーヴ・バーンズ(アル・パチーノ)を呼び、ゲイの世界に潜入して捜査しろ、と命じる。スティーヴは名前をジョン・フォーブスに換え、妻ナンシー(カレン・アレン)とも離れ、ひとり暮らしを始め、そこから毎晩のように、ゲイ・エリア、クリストファー・ストリートに並ぶディスコやバーに出かけていく。任務とはいえ、いやでもクルージングをすることになるわけだ。潜入捜査先のゲイのたまり場は、同じゲイでも、レザーや手錠などの金具を好むSMゲイの集まる場所であり、店内では抱擁どころか公然とフィストファックまで行われていた。

やがて、スティーヴら警察は、ひとりの怪しい若者にターゲットを絞り込む。彼は、殺人に使われたのと同じ型のナイフを使うレストランで働いていた。しかし取り調べてみたものの、彼は犯人ではなかった。スティーヴはイーデルソンに、この捜査をしていると気が変になりそうだから下りたい、というが、このまま続けてくれと頼まれる。その際、被害者の一人である大学教授の授業を聴講していた学生の氏名と顔写真の一覧を渡される。そこに、ディスコでよく目の合う男がいた。・・・・・・


事件は解決してすっきり終わるかと思いきや、イーデルソンのひと言で、まだ他に殺人鬼がいることを暗示させるような終わりかたになっている。犯人逮捕後、またゲイが殺されたが、殺害現場は、スティーヴが一人暮らしを始めたへやの向かいであった。殺されたのはテッド・ベイリー(ドン・スカーディノ)で、スティーヴが引っ越し直後からよく話していた若者だった。


サスペンスやスリラーで、一件落着したあとも、これで完全に終わったわけではないぞと言わんばかりに、今後への不安を暗示させるエンディングは多いが、本作品のそれは、犯人がまだ他にもいるようだ、だがそれは誰だか教えないよ、いろいろ想像できるからやってみて、でも犯人は捕まったアイツなんだよ、と言っているような終わりかたで、観る側を混乱させる目的であろうが、作品の終え方として不愉快である。


犯罪もののストーリーは、犯人がわかっている場合には、犯人や被害者または警察との二つの軸を置いて展開されるか、犯人がわかっていない場合で、観る側に犯人を知らせている場合は、犯人を追う側が犯人へ行き着くプロセスを展開し、観る側も犯人が誰かわからない場合は、犯人を追う側とともに、犯人へ行き着く謎解きを展開するのがふつうで、いずれにしても、犯人が確定したところでドラマは終わるべきであろう。


テッドの同居人グレゴリー(ジェームズ・レマー)は、しばらく不在であったが、ようやく帰ってきた晩には、テッドと言い争う声をスティーヴは耳にしている。スティーヴが訪れたとき、テッドは夜勤に行き不在で、グレゴリーと話すうち、大喧嘩となる。スティーヴは、潜入捜査の対象であるハードゲイの世界にはなかなか馴染めなかったが、テッドに対してだけは、身の上相談にまで乗っていたことがある。だからといって、テッドの殺害犯がスティーヴであるとは、暗示を超えるものだろう。


カメラは、ゲイナイトやゲイバーのようすを丁寧に撮っている。パチーノも、初めは、おっかなびっくりで「素人くさい」ゲイであるが、徐々に、それらしい歩き方、肩のゆすり方などを身につけ、ハードゲイに成り切っていく変化を見せてくれる。音楽は、『エクソシスト』(1973年)、『カッコーの巣の上で』(1975年)などで知られるジャック・ニッチェで、薄気味悪い音色を伴う効果的な音入れをしている。


やはり本作品は、脚本に問題が多いと思う。テッドを殺したのは誰か。一連の殺人事件の何人として捕まったスチュアート・リチャーズ(リチャード・コックス)は何ゆえに、顔見知り程度のゲイを「自業自得だ」と呟きながら次々に惨殺する必要があったのか、一度だけ登場する彼の父とスチュアート自身の間に何があったのか、捜査中にたまに自宅に帰ってきたスティーヴに対し、なぜナンシーは他人行儀であったのか、これらは理由も説明されず、伏線→回収の流れにもない。

本作品は、監督が脚本を兼ねている。しばしば指摘するように、脚本が一人で監督を兼ねている場合、すばらしい作品になるか、それと全く逆の自己満足映画になるか、はっきりと分かれる。本作品は、後者のほうである。その自己満足に、観る側も等しい満足を得られれば、その人にとって評価が高くなるだけのことである。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。