映画 『はじまりのうた』

監督・脚本:ジョン・カーニー、撮影:ヤーロン・オーバック、編集:アンドリュー・マーカス、音楽:グレッグ・アレキサンダー、主演:キーラ・ナイトレイ、マーク・ラファロ、2013年、104分、配給:ワインスタイン・カンパニー、原題:Begin Again


ニューヨークの某ライブ会場で、一曲歌い終えたスティーヴ(ジェームズ・コーデン)が、脇に座る友人のグレタ(キーラ・ナイトレイ)を紹介し、強引にステージに立たせる。しんみりとした歌のせいか、客の反応はイマイチだった。

だがそこには、自分の作った音楽制作会社をクビになったばかりのダン(マーク・ラファロ)が飲みに来ていた。ここ数年、ヒットにつながるアーティストを発掘できていないというのが解雇の理由だったが、ギター片手に歌うグレタの素質を見抜き、早速声をかける。はじめ拒否したグレタだったが、彼女も今の心境からして、その話に乗ってみることにする。

グレタは、歌手で恋人のデイヴ(アダム・レヴィーン)が浮気したことを知り、失意のどん底にあり、慰めてもらいがてら、スティーヴのコンサートに付いてきたのであった。

心機一転のつもりでグレタはダンの話を受けたが、会社をクビになったダンは、録音設備を使えない。そこで思い付いたのが、ニューヨーク市内のあらゆる場所で、自然の音や街の喧騒の入る状態で、ナマの歌声と演奏を録音してしまう、というアイデアだった。かつて世話をし、今では豪邸に住むミュージシャンのトラブルガム(シーロー・グリーン)たちの応援で、バンド仲間も増えていく。・・・・・・


冒頭、グレタが歌うシーンは、その後、グレタの過去からとダンのその日の朝からの行き着く先として計三回登場する。グレタとダンの二人三脚が始まるスタート地点であり、ここまでのいきさつをそれぞれに描写し、そこから後半の製作のほうに移っていく脚本はよかった。中盤以降、音楽仲間が集まり、路地で遊ぶガキンチョ5人もコーラスに参加させ、やがてはついにダン自身の娘バイオレット(ヘイリー・スタインフェルド)も加わることになる。


音楽の曲想や歌詞が、その意味するところのわかる者にはわかるから、ギクシャクすることもあれば、逆に、言い争いになっても、互いがいつも聴いている曲を聴き合うことで、そこにまた理解や寛容が生まれてくることもある。そうしたことを、言葉でなく、曲を含めて映像で表現できた作品だ。


前半の終わり際、ダンがギターだけで歌うグレタのステージを見ると、わきにある他の楽器の前には誰もいない。歌の間奏のとき、ダンの想像で、ピアノやドラム、テェロが鳴る。この演出は、ダンがグレタの歌声に惚れ込んだ以上に、観ている側に共感を呼びわくわくしてしまう。後半は、ニューヨークのあちこちでのライブ演奏のようすが映され、デイヴと仲直りしたグレタが、デイヴのライブに行き、その歌を聴くシーンで締めくくられる。その歌は、二人が仲違いする前に、いっしょに作った曲であった。聴衆はみな、その歌に感激していたが、ステージに上がれよ、というデイヴの合図を無視し、グレタはひとり自転車で去っていく。いっしょに歌わなくて正解であったろう。


ダンと妻ミリアム(キャサリン・キーナー)の夫婦仲も、ある意味、素敵だ。だらしのないダンは、外でひとり暮らしをし、たまに家に帰ってくる。ミリアムは、元音楽関係の記者だということだが、そういう業界の人間たち・男たちを知っているからこそ、ああした寛大な態度でいられるのだろう。言うべきことは言うにしても、夫の仕事を理解し、性格やクセも熟知している。こういう妻であればこそ、バイオレットが加わるときにもいっしょに行って楽しめるのだ。


言葉にはニュアンスがある。その言葉が旋律やリズムに乗るとき、そこに込められたニュアンスには言語を超えるものがある。ましてや、曲づくりをしそれを歌う人たちは、そうした言葉の意味合いで、作った人自身の気持ちがどこにあるのかも知りうるということだ。


音楽をテーマにした映画はたくさんあるが、この作品のように、作曲過程やメンバーが増えていく過程を主題的に扱う映画はあまりない。グレタの気持ちを思うと空しい気にもなるが、本作品にはあちこちに人間の気持ちややさしさが散りばめられており、観終わって心温まる映画だ。エンドロールにストーリーのつづきが流され、ダンのとった録音とダン自身がどうなったかが語られる。


(※本作品を紹介してくれた高校生に感謝します。とてもすてきな映画でした。)


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。