監督・脚本:ドロタ・ケンジェルザヴスカ、撮影:アーサー・ラインハルト、編集:ドロタ・ケンジェルザヴスカ、マイケル・ナイマン、音楽:マイケル・ナイマン、主演:ピョトル・ヤギェルスキ、アグニェシカ・ナゴジツカ、ポーランド映画、2005年、93分、原題:Jestem(=I am)
監督は1957年6月生まれの女性監督で、監督とともに編集も担当している音楽のマイケル・ナイマンは、『ピアノ・レッスン』(1993年)『ガタカ』(1997年)などで知られるピアニスト兼作曲家だ。
11歳の少年クンデル(ピョトル・ヤギェルスキ)は、孤児院にいるが、周囲とうまくやって行けず、同級生に頭突きを喰らわしたことで、担当者からも非難される。そんな毎日に愛想を尽かしたクンデルは、孤児院を抜け出し、母(エディタ・ユゴフスカ)の元に戻るが、母は見知らぬ男とベッドにいた。逃げるクンデルを追ってきた母はクンデルを抱き締めるが、男も捨てられない母を見かね、母を押し倒してそこを立ち去った。大きな川のほとりに来ると知り合いの男が船に乗せてくれた。男は岸辺に繋げてある艀船(はしけぶね)にならいてもいい、と言うので、クンデルはそこに住みつく。ガラクタしかなにような舟だったが、空き缶がたくさんあり、それを集めて売り、小銭を稼ぎ、レストランでスープも飲んだ。
ある日、寝ていると、上から空き缶を捨てる女子(アグニェシカ・ナゴジツカ)がいた。クンデルより少し年下に見えるその子は、舟の中に降りてくると酒臭かった。その子の家は、舟の泊まる岸辺から道を挟んで正面にある大きな家だった。この子には姉がいて、自分は姉ほど美人でなく頭も悪いという劣等感をもっていた。・・・・・・
クンデルが警察で、いわゆる人定質問を受けているシーンから始まるが、それはラストシーンにつながっている。後半に女の子も出てくるが、ほとんどクンデルの生きざまを追った映画である。ロードムービーのように移動するわけでもなく、ストーリー上に大きなメリハリがあるわけでもない。
同じく女性のナディーン・ラバキーが監督した『存在のない子供たち』(2018年)に似たつくりとなっている。『存在のない子供たち』では、12歳の少年の貧困な生活が描写されるが、放浪するときはあっても、少年は故意に家庭から追い出されたわけではない。本作品ではクンデルは、家から追い出されたのであり、舟で寝起きしているとはいえクンデルの放浪生活に焦点が当てられている。
こうした少年ものは数多くあるが、この作品では、こうした少年がうまれる原因である母親や孤児院、社会環境などへの批判は出てこない。ひたすらクンデルの日常を追う。普通ならいやいや孤児院に戻ってもおかしくないような厳しい試練の日々が続くが、彼は後ろを向くことをせず、何とか逞しく一人で生きていこうとする。舟で出会った女の子と親しくなり、子供らしいじゃれ合いもあるが、二人でどこかへ逃げようと計画するが、その当日、クンデルは、女の子の姉の通報で、警察に補導されてしまう。
そして、冒頭のシーンに戻り、人定質問に対するクンデルの答えがタイトルになっている。字幕では「僕は僕だ」となっているが、英訳を参考にそのまま訳せば、「僕は(ここに)存在している」という意味になるだろう。「僕の名前などどうでもいいじゃないか、現に僕は僕としてここにあるのだから」……氏名と実存は、記号学でいうシニフィアンとシニフィエの関係である。
このラストシーンで、クンデルのまなざしはカメラのほうを向き、映画は終わる。
クンデルの生活を追うだけの映画であるので、これをドキュメンタリー風に撮ったのでは、観る側に飽きが来る、と監督は知っている。クンデルの出るシーンは、アップのみならず、全身、バストショット、寝姿などヴァリエーションに富ませ、フレーム内の位置にも配慮している。全体にカメラアングルも変化に富み、エンタメ性を心得たつくりとなっている。
クンデル役のピョトル・ヤギェルスキの顔の演技もヴァリエーションに富み、すばらしい。爪も真っ黒にし、大きく穴の開いた靴に、拾ってきたガムテープを巻きつけ、これでよくなった、といって笑うシーンなど頼もしささえ伝わってくる。女の子はあるときから、レジ袋に入れたハンバーガーを、門柱の木に引っかけておく。クンデルはそっとそれをとりに行き、舟で食べる。ハンバーガーは銀紙に包まれていて、女の子の手作りだということがわかる。犬が寄ってくると、自分は腹が減っていても、犬にひと口食べさせるなど、子供らしいシーンも多い。
映像で飽きさせないようにと、後半、全体にセピア調の色を多く使っている。全編通じ、合間合間にきれいな風景を取り入れることも忘れていない。
孤児となり舟で生活する少年の日常を追った作品であり、色彩、カメラワーク、音楽などをうまく使って演出効果を出している。クンデルの生きざまに対し、むやみに否定したり、また、同情を引こうとしたりという意図より、むしろこんな選択をせざるを得ないクンデルを、密かに応援したくなるような仕上がりとなっている。
クンデルが女の子と話すあるシーンに、僕は詩人になりたいんだ、という台詞がある。詩人になった人間のいくらかはみな、こうした壮絶な原体験をしているのかも知れない、と思わせるような、妙に説得力のある言葉であった。
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