映画 『雪の轍』

監督:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン、脚本:エブル・ジェイラン、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン、原作:アントン・チェーホフ「妻」、撮影:ギョクハン・ティリヤキ、編集:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン、ボラ・ギョクシンギョル、美術:ガムゼ・クシュ、音響:トマ・ロベール、主演:ハルク・ビルギネル、メリサ・ソゼン、2014年、196分、トルコ映画、トルコ語、原題:Kış Uykusu(=冬眠)


トルコの中央アナトリアの地形の珍しさから歴史的に由緒あるカッパドキア地方が舞台。カッパドキアにあるギョレヌという町にある岩の町は、ユネスコの世界遺産となっている。その岩でできた町のホテル「オセロ」が主な舞台となっている。このホテル兼自宅も、並ぶ奇岩の間に作られている。


元舞台俳優であったアイドゥン(ハルク・ビルギネル)はそのオーナーであり、トルコ内のあちこちに店や賃貸物件をもっている。食べていくには充分な資産があり、娘ほどの年に当たる妻ニハル(メリサ・ソゼン)、実の妹で、離婚して戻ってきているネジラ(デメット・アクバァ)と住んでおり、子はない。ホテルの仕事は、ヒダーエット(アイベルク・ペクジャン)に任せ、ふだんは、離れたところにある書斎で、新聞記事や演劇史に関する原稿を書いている。

ある日、アイドゥンとヒダーエットが車で下校時の小学生の群れの中を通り過ぎると、一人の少年がその車に石を投げ、ドアのガラスを壊してしまう。ヒダーエットが捕まえると、アイドゥンの自宅から10kmほど離れたところにある独立した賃貸物件に住むイスマイル(ネジャット・イシレル)の子で小学5年のイリヤス(エミルハン・ドルックトゥタン)であった。イスマイルは過去の犯した犯罪のため仕事に就くことができず家賃を滞納しており、テレビその他の家財を強制執行により持っていかれたとして、イリヤスはアイドゥンを恨んでいたのだった。

数日後、イリヤスの叔父でイスラム教伝道師でもあるハムディ(セルハット・クルッチ)が訪れてきて、甥のしたことについて謝りにくる。今すぐには不可能だが、ガラス代も弁償するというが、その金額を聞いてハムディは驚く。アイドゥンは、ハムディに対し、言わんとすることはわかったから、もう来ないでいい、と告げる。しかし数日後、今度はイリヤスを伴って、ハムディは再度アイドゥンを訪ねてくる。・・・・・・


チェーホフの小説「妻」(1892年)に着想を得て書き下ろされた脚本とのことだが、台詞の中にはシェイクスピアからの引用もあり、本作品を観ていて舞台劇が元になっていることは容易に想像できる。ステージも、ホテルのロビー、ホテル内のアイドゥンの自宅、アイドゥンの書斎、ニハルのへやなど室内が多く、固定カメラと切り返しで会話劇が出来ている。


一般に、舞台劇はイコール会話劇であり、その映画化は舞台を撮影するかのようになって、映像的に退屈するものが多いが、本作品はそうならなかった。なぜか。


カメラは、一区切り終わると、壮大なカッパドキアの風景を映し、室内劇が充分と思われるころ必ず外に出る。これは常套であり、カメラワークに凝った撮り方をしているシーンや、会話中に人物が動くということでフレームが移動したりズームしたりするところもない。とうことは、ひとえにそれは、練られた台詞のためであると思われる。


社会の縮図というレベルで見るなら、裕福な家と家賃も払えない状況にある家族という貧富の対比は当然のように仕込まれており、アイドゥンとイスマイル、アイドゥンとハムディの会話と相手に対するホンネがそれである。それのみならず、アイドゥンの話す相手は、そこそこ知的な会話で応酬ができる人物たちだ。それはネジラであり、ハムディであり、慈善事業におけるニハルの仲間の教師レヴェント(ナディル・サルバジャック)などである。


アイドゥンとネジラ、ネジラとニハル、アイドゥンとニハルの会話の応酬はそれぞれ長いシーンであるが、実存としての人間のありかたに触れ、そのテーマの周囲を巡る内容であり、言葉も選ばれており、退屈しない。人間にとって悪とは何か、犯罪を赦すことは可能か、犯罪者を改心させる方法はあるか、といったテーマをはじめ、人間の自己欺瞞、正直と偽善などという哲学的な話にいたるまでを、哲学的なジャーゴンを使うことなく、日常を送る人々の会話であるがゆえに日常のレベルでの出来事が日常の言葉で交わされる。


構成としては確かに並列つなぎのストーリー展開ではあるが、各シーンでの会話の内容や台詞の掛け合いや間に演出が効いているため退屈しないのである。これらの会話内容には、結論に当たるようなものはなく、この映画自体も、そういう問いかけをしてくるのだが特定の結論に結びつけることを強要しない。


雪降る季節となり、ニハルは、憐憫の情からと大金をイスマイルに届けるが、逆にイスマイルになじられ、イスマイルはそのカネを暖炉に放り投げる。ニハルはまだ、その程度の善意表現しか持ち合わせていなかったことになる。アイドゥンはニハルに対し、ニハルが家を去るのではなく、自身がイスタンブールに出て一人で暮らす、と勇ましく家を出て行ったものの、若い妻恋しさに結局は自宅に戻ってくる。

それぞれにいろいろないきさつがあったものの、大きな解決策が見つかったでもなく、どんな哲学的なやりとりも互いに相手に向けた激しい論駁も空しく、冬の眠りを挟んだだけで、よく言えば冷却期間を置いただけで、また元の凡庸な日常に戻るのである。


時折挿入されるシューベルトのピアノ・ソナタ第20番第2楽章の主旋律が、人間存在の空しさを象徴するかのようで効果的だ。 


(※この映画は、あるフォロワーの大学生のツイートにより知りました。こういう内容の作品を紹介してくれるので、参考にしています。こういった傾向の作品が好きなのでしょう。レビューも的確なものでした。記して感謝の言葉に替えます。)


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。