監督:篠田正浩、原作:石原慎太郎、脚本:馬場当、篠田正浩、撮影:小杉正雄、美術:戸田重昌、照明:青松明、編集:杉原よ志、音楽:武満徹、高橋悠治、主演:池部良、加賀まりこ、1964年(昭和39年)3月、96分、白黒ワイド、製作:文芸プロダクションにんじんくらぶ、配給:松竹
ヤクザの村木(池部良)は、三年の刑期を終えて娑婆に戻ってきた。東京に戻っても街のようすも変わっておらず、人々が犇めいて生きている姿を見て空虚な自問自答をする。戻ってきても行き着く先は、花札賭博の賭場でしかなかった。時計屋を営む昔の女(原知佐子)のところに来ても、自分への好意も家での悩みも、村木にとっては興ざめで新鮮味に欠けていた。賭場には見慣れない若い女がいた。賭場などには不釣り合いな可愛らしい容貌と、度胸の据わった賭けっぷりで、勝負にも悉く勝っていた。組の者に聞いても、その女の素性を誰も知らなかった。村木は屋台で偶然その女と会う。名前を冴子(加賀まりこ)というその女は、若者らしい溌剌としたところがなく、どこか退屈で虚無感を抱いているように見え、村木は、恋愛感情としてではなく、性差や年齢を超え、似た者同士に見える冴子に関心をもつ。・・・・・・
屋台で、相手を殺すときに、初めて生きているなあと実感した、と話す村木に、冴子も関心をもち、その後、賭場に行くときには、村木は彼女の高級なオープンカーで向かう。もっと大きな賭けをしたい、と冴子が願い出ると、村木は同じ組の仲間(杉浦直樹)にツテを探してもらい、そこに出入りするようになる。
冴子は身なりもよく、村木が横浜のシルクホテルで見かけたときは、グループ見合いの途中のことだったようだ。しかし冴子にはそんなことに興味はなさそうで、村木といるときにもほとんど笑顔が見られない。笑顔を見せるのは、賭けをして勝ったあとや、首都高でオープンカー同士の競争をした直後くらいのことだ。
昭和39年秋には東京オリンピックが開かれた。その年の春に封切された映画である。高度経済成長真っ盛りの時代であり、三種の神器、テレビ・洗濯機・冷蔵庫が普及したころの話だ。欧米文学では不条理演劇、哲学・社会学の分野では不条理理論が人気を得た時代でもある。これを受け原作も生まれたのであろうが、それをさらに脚色したものが本作品となっている。
通常であれば、花札賭博の現場に冴子ほどの容姿でカネ回りのいい若い女がいれば、男であれば誰でも下心をもって近づこうとし、一夜を過ごそうとするだろう。が、村木にそうした方面の関心は、少なくとも当初はなく、冴子の素性を誰も知らないというのなら他の若いヤクザ仲間が近付いた気配もないということになる。冴子のほうも、優雅な装いで賭け事はするものの、どこか近づきがたい雰囲気を醸し出している。それは男を拒否するというのではなく、恋愛に飢えているというのでもない。冴子くらいの女なら、その気になれば、男はいくらでもひっかけることはできるだろう。
冴子も、心の奥底において、何がしかやり場のない不満を抱いており、それは金銭や賭け事で解決できないものなのである。賭け事やドライブは憂さ晴らしや気分転換にはなっても、人間の本質のところにある虚無や不条理は、すぐに消え去っていくものではないのだ。屋台での村木との会話で、冴子の言う、私は私を赦す、という言葉は印象的だ。
ヤクザ同士の抗争にケリをつけるため、村木は再度、刺客になると申し出る。掛け金に回すカネが乏しくなった村木は、賭場にしばらく行かず、結果として、冴子にもあまり会わなくなっていた。冴子は、賭場にたむろしていた葉(藤木孝)といういわくつきの男と親しくしているようだったが、すでにそんなことはどうでもよいことだった。村木が仕事をする直前、突然冴子が村木の前に現れる。村木は冴子に、人を殺すところを見せてやる、と言う。こうして冴子は、村木が敵のヤクザの親分を刺殺するところを、間近で目撃する。そのとき冴子は、驚いた表情どころか、うっすらと微笑みを浮かべていた。
なかなか扱いにくい作品の映画化だと推察するが、肝心な台詞を選択し、ほとんどを固定カメラでとらえた映像により、うったえかける力の強い作品となっている。カメラワークで特によいと感じたのは、本作品でもやはり、フレームどりである。この頃の映画、いや、映画全般に言えることだが、フレームをどこで切るかによって、映像や役者の演技の効果にはかなり違いが出てくるのだ。
加えて、諦観に達したような池部良のヤクザ役や加賀まりこの冷めた役は、タイトルどおり、咲いてはいるが中身は乾いている花を象徴することに成功している。
東野英治郎、宮口精二はこのころの映画ではよく見る顔だが、他に、20代前半の三上真一郎、佐々木功、竹脇無我の顔を見られるのも楽しい。
武満徹と高橋悠治による前衛的な音楽にも注目しておきたい。
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