監督・脚本:石川慶、原作:恩田陸『蜜蜂と遠雷』、製作:市川南、撮影:ピオトル・ニエミイスキ、編集:石川慶、太田義則、照明:宗賢次郎、録音:久連石由文、美術:我妻弘之、音楽:篠田大介、音響効果:柴崎憲治、オーケストラ演奏:東京フィルハーモニー交響楽団、主演:松岡茉優、2019年、119分、配給:東宝。
四人の若きピアニスト、栄伝亜夜(松岡茉優)(20歳)、高島明石(松坂桃李)(28歳)、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール(森崎ウィン)(19歳)、風間塵(鈴鹿央士)(16歳)が、伝統あるピアノコンクールに臨む。予選から本選に至るまでの物語を、その四人のかかわり合いを横糸に通しながら描いていく。優勝は誰になるかという競争に重点を置かず、それぞれのピアニストの音楽に対する考えや信念を交えて描いているので、ライバル意識や演奏に関する悩みというのは最小限に抑えられている。
中心人物は、栄伝亜夜で、幼いころから母にピアノを教えてもらっていたが、七年前、母が亡くなった直後のコンクールでは、何も弾けぬまま、舞台から去ってしまったという過去がある。幼いころ同じくこの母にピアノを習っていたのがマサルである。高島明石には妻子があり、およそピアニストの世界とはかけ離れた田舎に住んでいるが、音楽とは生活者の音楽を意味するという考えをもち、年齢的にもラストチャンスである。風間塵はフランス在住で、父親が養蜂業のため、採蜜のため欧州を移動しつつ暮らしている。ピアノ自体をもっておらず、木でできただけの音の出ない鍵盤を叩いて練習してきた。ピアノの大家で亡くなる直前のホフマンから推薦状をもらい、コンクールに臨む。その演奏後には調律師も呆れるほどの野性的な演奏をする。この世界への登場ぶりから、蜜蜂王子と呼ばれるようになる。
四人が海岸に散歩に出たとき、風間塵が栄伝亜夜とマサルに、海岸線の遥かかなたに雷が光るのを見て、世界が鳴っている、と言う。タイトルの「蜜蜂と遠雷」はこのへんからきているのだろう。
音楽の演奏を入れた映画は、製作に非常に時間がかかる。演奏中のシーンでは、プロのピアニストと俳優の演技を、その楽曲のメリハリに合わせて、キレよく編集しなければならない。本作品では、監督兼脚本の石川慶が編集も行っている。どれもうまく撮られ、うまく編集されている。クラシックファンには身近な曲もたくさん聴くことができ、ラストの栄伝亜夜によるプロコフィエフ「ピアノ協奏曲第3番ト短調」は、映画の流れからしても圧巻である。原作では、本選で、マサルが「第3番」を弾き、栄伝が「第2番」を弾くが、本作品では、マサルが「第2番」を弾き、栄伝が「第3番」を弾いている。ラストに向けての盛り上がりとして、「第3番」の第3楽章のほうがふさわしいという判断からであろう。この判断は正解だ。
若い四人の出番は当然多いが、その演技力を補うかのように、斉藤由貴、鹿賀丈史、平田満、光石研らが配置され、タイムリーに登場し、脇を固めている。
あえて主役というなら栄伝亜夜だが、そこに多少の注文をつけたい。母との想い出、7年前にコンクールで舞台から去ったこと、今回は意を決してコンクールに臨んだこと、これら時系列に並んだ事実は観ていればわかるが、栄伝が過去に思いを馳せるときのイメージシーンが、現在に至る現実の彼女のありかたと結びつかず、乖離していてしっくりこない。塵やマサルたちとの会話シーンでは、台詞、即ち、言葉があるからその心境を理解できるが、過去を描く映像シーンが、子供らしさや不安、母の死による悲しみやショックなどと程遠い気がする。
また、初登場シーンからして、そうした過去があるにもかかわらず今回挑戦することになった、という気配がなく、能面を付けて突っ立っているだけで親近感も湧かない。これは、松岡茉優の演技力不足もあるのだろうが、監督の演出の方法がおかしいからではないか。途中から塵やマサルとのやりとりで心境が変わってきて、一旦また去ろうとした本選でみごとな演奏をし笑顔を見せるが、そうした後々のシーンを考えて前半を能面にしたとしか思えない。
ここは多少脚色してでも、本人にもう少し語らせ、表情を豊かにさせてもよかった。
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