監督:アーネ・グリムシャー、脚本:ジェブ・スチュアート、ピーター・ストーン、原作:ジョン・カッツェンバック、撮影 :ラホス・コルタイ、編集:ウィリアム・アンダーソン、アーメン・ミナシアン、音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード、主演:ショーン・コネリー、1995年、102分、配給 ワーナー・ブラザース、原題:Just Cause
1986年、フロリダ州オチョピーで、白人の少女を強姦した容疑で黒人青年ボビー・アール(ブレア・アンダーウッド)が逮捕され、その後死刑判決を受ける。ポール・アームストロング(ショーン・コネリー)は、弁護士業を引退し、ハーバード大学教授を務めており、死刑廃止論者として講演会に出席していた。講演を終えると、ボビーの祖母(ルビー・ディー)に止められ、孫が無実の罪で死刑になる、これはボビーからあなたに宛てたものだ、として手紙をポールに渡す。引き受けないつもりであったが、帰宅してそのことを妻で検事だったローリー(ケイト・キャプショー)に話すと、やってみたら、と言われ、フロリダへと飛ぶ。
独房で面会したところ、ボビーは礼儀正しく頭のよい青年であった。罪状を認めたのも、保安官タニー・ブラウン(ローレンス・フィッシュバーン)や刑事の T・J・ウィルコックス(クリストファー・マレー)によって拷問されたからであり、すべての自白は強要され、でっち上げられたものだった、と言う。しかも真犯人は、同じ刑務所に収監されている連続殺人犯ブレア・サリバン(エド・ハリス)と明かした。・・・・・・
脚本のひとり、ジェブ・スチュアートは、『ダイ・ハード』(1988年)、『逃亡者』(1993年)などを書いているが、本作品においては、やや工夫がない。ボビーの無罪判決が出るのが開始65分前後で、まだ何か起きるかと思えば、実際に少女を殺したのはボビーであることがわかるのだ。ブレアとボビーは取り引きをしており、サリバンが少女殺しの罪までかぶって死刑執行されたあと、ボビーが、当時検察官として別の事件で自分を取調べ、有罪にはならなかったものの自らの人生を狂わせたローリーを復讐殺人する計画であった。意外性を狙った展開のつもりだろうが、伏線を張るなり、そうと疑わせる材料を提供しておくなりして、映像で見せていくのが映画なのである。
脚本に工夫がない、とは、つまり、あるキャラクターがあることを意図的に計画し実行しようとするならば、キャラクターとその計画とに、ストーリー上、バランスがとれていないと違和感を覚える、ということだ。両者にバランスをもたせるためには、キャラクターの育ってきた環境や生活ぶり、趣味など日常を映し出しておかないと、観る側には、すべて中途半端に映ってしまう。ましてや、本作品には、アメリカ映画お決まりの白人による黒人への差別意識が混じって描かれている。
ショーン・コネリー演じるポールを、あまりに中核に置き過ぎたため、ボビーら周辺の人間の心理描写がなおざりになってしまった。特に、タニーは、ボビーが無実となったあとでも、ボビーが犯人であることを信じつづけた唯一の立場であり、タニーの自宅や子供たちの姿を見せるのであれば、彼自身の信念などを描写する必要があった。それは、ポールとの対話などにして、ひと呼吸置くようなタイミングで挿入してもよかっただろう。
原作がそもそもそういう書き方であるなら、脚色の力不足である。原作は小説であり、文字であるからには、そういう手落ちはないであろう。大胆に、映画としてのストーリーに変換するには難しい内容だったのかも知れないが、それをやり遂げるのが、映画の脚本家というものだろう。
脚本が片手落ちになったまま進行していくので、流れはシンプルでわかりやすいが、メリハリや厚みに欠け、エンタメ性に欠ける作品となってしまった。
音楽は、『摩天楼を夢みて』(1992年)、『フォーリング・ダウン』(1993年)、『逃亡者』(1993年)などで知られるジェームズ・ニュートン・ハワード。
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