映画 『暴力脱獄』

監督:スチュアート・ローゼンバーグ、脚本:ドン・ピアース、フランク・ピアソン、製作 :ゴードン・キャロル、撮影:コンラッド・L・ホール、編集:サム・オスティーン、音楽:ラロ・シフリン、主演:ポール・ニューマン、ジョージ・ケネディ、1967年11月、126分、配給:ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツ、原題:Cool Hand Luke


ルーク・ジャクソン(ポール・ニューマン)は、ある晩、酒に酔い、道具を使い、パーキングメーターを次々にねじり切る。駆けつけた警官により捕まり、器物破損の罪で、フロリダの刑務所に2年の刑で収監される。彼は戦場での戦いぶりに対しいくつかの勲章を得、一時は軍曹にまで昇進したが、除隊されたおきは一兵卒としてであった。

収監翌日から、炎天下での草刈り作業など苛酷な労働を強いられる。バラックのような収容所には二段ベッドがあるだけで、囚人ゆえの拘束だらけの日常がつづく。反体制的で飄々としたクールな物言いや素振りで、やがて囚人仲間たちに少しずつ受け入れられていく。その中でボス的存在であるドラグライン(ジョージ・ケネディ)とも、休日のボクシングでボコボコにされることで却って親しくなり、ドラグラインはルークのことを、Cool Hand Luke と呼ぶようにさえなった。・・・・・・


パーキングメーターを壊したのはむしゃくしゃしたからであって、深い意味のあることではない。勝ち目のない手持ちカードなのに大金を賭けて負ける、仲間たちの賭けとして、ゆで卵50個を食べる、など、特に意味のない行為が描写される。同様に、2かい脱獄したあとは、不埒な理由で、穴を掘らされたり、埋めさせられたりする。権力の側も、意味のない暇つぶしをするという点では、似た程度の存在である。

脱獄を3回行なうが、最初の2回はすぐに連れ戻され、3回目のトラックによる逃走ではドラグラインも飛び乗って付いてきたが、そのドラグラインがすぐに見つけられたせいで、ルークのいる教会もバレてしまう。


所長や看守を含め、まことにどうしようもない男たちが、日々決まったことや言われるがままのルーティーンを繰り返すだけだ。そこには生きていることの幸福もそれへの感謝もなく、くだらぬゲームが繰り返されるだけなのである。囚人たちは、囚人ゆえにやむを得ないのだが、権力側に歯向かおうとすれば、武器で脅され、ただ従順に規則に従うだけなのである。


この映画の意図するところからすれば、本作品は、ルークの生きざまを描いたものであるから、原題 Cool Hand Luke をそのまま訳し、クール・ハンド・ルーク、でよかったのではないか。


台詞はないものの、どこかで見た顔があるなと思ったら、やはりデニス・ホッパーであった。彼はこのあと、『イージー・ライダー』を監督することになる。

本作品は、直前に公開された『俺たちに明日はない』(1967年8月)や、その後の『イージー・ライダー』(1969年)から『カッコーの巣の上で』(1975年)に至るいわゆるアメリカン・ニューシネマの系譜に位置付けられる作品であろう。いずれも犯罪や脱獄・脱走をみごとな手腕だと賞賛し、刑務所や施設などを舞台としている。

ルークという名前も新約聖書のルカを想起させるもので、ルークはラスト近く廃屋と化した教会のなかに入り、天井、つまり、天に向かって、神との会話を独白する。そして、自分を見捨てるのかどうかといった問いかけをする。キリスト教や神に対する信心にも、一石を投じている。


映画・映像として一定の評価はできるのでレビューにするが、好き嫌いで言えば、上記諸作品同様、嫌いな映画である。ここには、映画上の起承転結やメリハリ、即ちストーリー展開やドラマ性がないのだ。不条理演劇同様、時代背景の産んだ代物であり、それだけに当時は人気をもって迎えられたのだろう。製作意図に政治的主張を盛り込むのはいいとして、その方法において、これらの映画は好きになれないのだ。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。