映画 『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』

監督:ヨルゴス・ランティモス、製作:エド・ギニー、ヨルゴス・ランティモス、アンドリュー・ロウ、脚本:ヨルゴス・ランティモス、エフティミス・フィリップ、撮影:ティミオス・バカタキス、編集:ヨルゴス・モヴロプサリディス、主演:コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、2017年、121分、配給:A24、アイルランド・イギリス合作、原題:The Killing of a Sacred Deer


大病院の心臓外科医スティーブン(コリン・ファレル)は、眼科医の妻アナ(ニコール・キッドマン)、娘キム(ラフィー・キャシディ)、その弟ボブ(サニー・スリッチ)と、豪邸に住み、幸福な日々を送っていた。スティーブンは、職場の外で、マーティン(バリー・コーガン)という少年にときどき会っていた。一緒に食事をしたり、腕時計をプレゼントするまでの間柄であった。その後、マーティンがスティーブンに会う頻度は増していく。マーティンはスティーブンの勤める病院にまで来るのであった。

マーティンの申し出により、ある日スティーブンは、自宅にマーティンを招き入れる。子供たちと三人になったマーティンは、自分が16歳であることや、父親がいないことを話し、タバコを吸い始める。数日後、ボブの両脚が麻痺して歩けなくなり、入院する。やがて同じことがキムにも起こる。・・・・・・


ダークファンタジーという分野になぞらえて言うなら、本作品はダークスリラーとも言える内容だろう。中盤で、マーティンの父親は、執刀医だったスティーブンの手術ミスにより死亡したことが明かされる。マーティンがスティーブンに、そのことを直接話すくだりもある。マーティンは、スティーブンと同じく心臓外科医をめざす者として、常にまじめそうな顔でスティーブンに接近してきたが、実は、亡き父の復讐を遂げるために近付き、スティーブンの関心を買ってまとわり続けていたのである。

スティーブンとのやりとりの結果、一家4人を皆殺しにしない代わりに、スティーブンが家族の誰か一人を犠牲として殺せば、それ以上のことはしない、ということになる。追い詰められたスティーブンはアナに相談する。アナは、夫婦が生きていればまた子供は作れる、という。スティーブンは、三人を居間のソファーに固定させ袋をかぶせて目隠しをさせ、自らも目隠しをしてライフルを撃ち、ボブに命中する。こうして、父親によって聖なる鹿は仕留められた The Killing of a Sacred Deer のである。


薄気味悪い映画であり、血が飛び散ったりするシーンこそないものの、選ばれた言葉と映像で内容の異常さやグロさを表現し切ったのはみごとである。ファーストシーンは、いきなり手術中の内臓のアップから始まり、この映画が決してまともな内容ではないことを暗示している。全編を通じ、マーティンはじめ登場人物すべてに、ほとんど笑顔のシーンもなく、ところどころ不気味な音声も流される。台詞に、初潮、わき毛といった言葉も出てきて、マーティンにせがまれて、スティーブンがわき毛を覗かせるシーンもある。これはのちに、台所での魚の解体シーンや、スティーブンに拘束されたマーティンが、自らの腕に噛みついて肉片を吐き出すシーンなどへの映像的伏線ともいえる。マーティンがスパゲティを食べながらアナと話をするシーンなど、外見上は極めて日常的風景でありながら、ストーリーへの貢献度は高いシーンも多い。


同じ心臓外科医をめざしているからというだけで、マーティンに手厚いもてなしを続けるスティーブンであるが、両者のやりとりには初めから異様な雰囲気がある。キムとボブはどちらが優秀か、と二人の担当医に尋ねるスティーブンはすでに異常な段階に入っており、ソファにいる三人のうち、三発目でボブに命中させたのは、自らも袋をかぶっていたとはいえ、実は見えていたのだろう。でなけれが、ボブの首に的中できるわけがない。

スティーブンはじめ、夫婦が生きていればまた子供は作れる、などと平然と言うアナも異常であり、スティーブンの手術ミスの内容を知らせるのと引き換えに、白昼、車の中でアナにフェラチオをしてもらうスティーブンの同僚の麻酔科医マシュー(ビル・キャンプ)もイカれている。

しかし、彼ら以上に異様なのは、スティーブン一家に悲劇をもたらしたマーティンであり、撮影時24歳のバリー・コーガンは16歳には見えないが、イケメンというわけでもなく、いかにもそのへんにいそうな高校生という役柄としては適切なキャスティングであった。スティーブンのミスを知りつつ、マーティンの招きで自宅に来たスティーブンの手のきれいさを褒め、その手に頬ずりしセックスをいざなうマーティンの母(アリシア・シルヴァーストーン)もまた、異様である。


残った一家三人は、初めにスティーブンとマーティンが食事したのと同じレストランの同じ席に、向かい合って座っている。そこへマーティンがやってきて、カウンター席に座り、好物のレモネードを飲みながら、家族のほうを見てラストとなる。

ボブというひとりの少年が、その父親によって殺害されたことなどなかったかのような平穏さで、正確には、ボブというひとりの少年が犠牲になってくれたおかげで、父親の名誉や一家の平安が守られ、それを願った側(マーティン)も落ち着きを取り戻したかのようである。


薄気味悪い雰囲気が漂うといっても、映画は映像で表現する芸術だ。本作品は、その言わんとすることを、血の飛び散るシーンやグロ画像などを入れず、美しく几帳面な映像で表現することができている。キッドマンが出ているからということと関係なしに、どこかスタンリー・キューブリックの撮り方を彷彿とさせるシーンが多い。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。