映画 『バーバー』

監督:ジョエル・コーエン、脚本:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン、製作:イーサン・コーエン、撮影:ロジャー・ディーキンス、編集:ロデリック・ジェインズ、トリシア・クック、音楽:カーター・バーウェル、主演:ビリー・ボブ・ソーントン、フランシス・マクドーマンド、カラー(モノクロ版もあり)、2001年、116分、配給:USAフィルムズ、原題:The Man Who Wasn't There


白黒とカラーの両方があり、白黒のほうは、カラー用のフィルムで撮影したものを編集でモノクロに変換したものとのこと。このDVDには両方入っている。モノクロのほうで観た。


1949年、カリフォルニア州サンタローザの理髪店から話は始まる。エド・クレイン(ビリー・ボブ・ソーントン)は、妻ドリス(フランシス・マクドーマンド)の兄であるフランク(マイケル・バダルコ)と二人で床屋を営んでいる。フランクはおしゃべりだが、エドは寡黙でマイペースであった。

ある日、一人の男が閉店後に訪れる。エドが引き受けたのでフランクは帰った。その客はクレイトン・トリヴァー(ジョン・ポリト)と言い、禿げ頭を上等なカツラで隠している胡散臭い男だった。クレイトンが言うには、これからの新たなビジネスとして「ドライクリーニング」のできるクリーニング店を開くつもりだが、資金を出してくれるパートナーを探しているとのことだった。退屈な日々に刺激を交えようとする気持ちも手伝い、クレイトンの話に疑いも挟んだが、エドは結局1万ドルを用意して相棒になろうと決意する。そのカネは、ドリスの浮気相手からゆすりとれると考えたからだ。ドリスは洋品店で経理の仕事をしているが、そこの経営者デイヴ(ジェームズ・ガンドルフィーニ)と浮気をしていることをエドは知っており、エド自身のしわざとは気づかせずに、デイヴから1万ドルを脅し取ろうと考えたのである。そしてエドは意外にも簡単にそのカネを現金で手に入れることができた。しかし、エドがデイブの事務室に呼ばれて行くと、デイヴはエドが犯人であることを知っており、エドに詰問する。二人は口論の末揉み合いとなり、エドはデイヴの首を刺し、殺してしまう。ところが実際に捕まったのは、ドリスのほうであった。ドリスはデイヴの指示で、長年にわたり経理上の不正をはたらいていたのである。・・・・・・


何ともユニークな作品ではある。シリアスに話が進んで行くかと思えば、それはエドの頭の中をぐるぐる巡る人生観やイッヒロマンなどとはズレたところでのストーリーであり、特にメタファーやギャグなどはないものの、滑稽な展開をしていくという点だ。

たしかに、ジェームズ・M・ケインの『殺人保険』(『倍額保険』=映画『深夜の告白』)や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(映画、同じ題名)といった犯罪小説の影響はあるようだが、純粋なフィルム・ノワールというわけではなく、滑稽味を帯びた作品となっている。デイヴが死んだあと、その妻アン(キャサリン・ボロウィッツ)が夜更けにエドを訪れ、ここだけの話だとして宇宙人来襲の噂とデイヴの話を関連付けるあたりも唐突でおかしく、この話は終盤、床屋のいすでエドが見る雑誌に、ロズウェル事件が載っていることと呼応しているが、これとてただの<添えもの>であって本筋を飾る花にほかならない。ドリスの弁護士となるフレディ・リーデンシュナイダー(トニー・シャルーブ)という弁護士も、そのありかた・演説・スノッブぶり全体が滑稽な存在なのである。


本作品の主役はエドであり、さらに、折々に触れエドの脳裏をかすめていく日常レベルの感想や不平で、その多くはエドのモノローグになっている。怪しいと疑いながらもカネを用意したが、結局のところクレイトンは蒸発し、ドリスも獄中でなぜか自殺し、とうとう孤独になってしまう。一人でいることのほうが居心地がよいとしてきたエドであったが、いざそうなるとやはり心寂しく、知り合いの弁護士ウォルター(リチャード・ジェンキンス)に、妻の弁護の相談をしたり、その娘バーディ(スカーレット・ヨハンソン)の弾くピアノを聴いたりもする。


映像的に取り立てて注目したくなるようなシーンはそう多くない。フレディがドリスやエドと接見する際の光の当て方なども、特段目新しい演出でもない。ラスト近く、エドとバーディの乗った車が崖から落ちるとき宙を飛ぶ車のカットを入れるとか、ホイールがころころ転がって、エドとドリスの日常のカットを挟むとかいったシーン、電気イスに向かうとき、エドの目に入るのは、この光景を見ている男たちの髪型の部分であるなど、映像にも滑稽な要素が取り入れられている。しかし、カメラワークのおもしろさというものは特にない。やはり本作品の持ち味は、そのストーリーにあるのだろう。


しかし、そのストーリー展開は、ドリスが死に、被告人死亡による免訴で裁判が終わり、クレイトンも行方不明となり、エドが、みんな行ってしまった('gone')と嘆息する後半3分の1くらい以降の展開が、そこまでに比べ凡庸となってしまった。歩くようなテンポの進行が持ち味の映画で、そのテンポはラストまで維持されている。

だが、エドのモノローグや事態の展開が、映像のシークエンスと重なっていたそこまでとは異なり、映画としてのストーリー展開と映像の連続が噛み合っていないのだ。正確にいえば、そこからは一層、心の内面を撮ることにもなるから、映像のほうは仕方がないとしても、エドの心境ややるせない気持ちの展開といった面がこちらに伝わりにくく、言葉だけが浮き、映像はそれを支えるだけの補強材にしかなっていないということだ。例えば、たしかに、エドがバーディに将来性ある少女として関心をもっている、ということは前半にも出てくるのだが、それが、有名なピアニストに引き合わせるまでの熱意になる過程、さらにバーディが、運転するエドにフェラチオをするというあたりは、前述の滑稽味を超えて、ただ呆れてしまうようなシーンとしか言えない。


本筋に直接関連はないが、戦後間もないという設定の本作品の中に、戦時中の日本軍や日本人を愚弄する表現が出てくるのは、日本人としてはあまり気持ちのよいものではない。戦争映画であれば「Jap」という日本人の蔑称はよく出てくるが、この程度の映画にそうした呼称を台詞に混ぜる絶対的な必要があったのか疑問である。また、エドが、みんな行ってしまった('gone')と言うときに、「(みんな)長崎の日本人どものように気化してしまった」という台詞が入っている。原語では「vaporised like the Nips at Nagasaki」と言っている。Nips とは、日本人一般に対する蔑称である。それでも本作品を最高によく解釈するならば、この映画は、こんなたとえを使うエドという、ヤル気のない、徴兵もされなかった男が、つまらぬ詐欺に引っかかり、やがては死刑になる、という<オバカ話>なのです、ということだ。


冒頭からモーツアルトの『フィガロの結婚』の「手紙の二重唱」やベートーベンのピアノ・ソナタ『悲愴』などクラシックの静かな曲が流され、エドの心の色を表わすかのようだ。前者は、『ショーシャンクの空に』でも効果的に使われていた。

一定のテンポと雰囲気をもつ映画ではあるが、それ以上でもそれ以下でもなかった。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。