映画 『流れる』

監督:成瀬巳喜男、製作:藤本真澄、原作:幸田文、脚本:田中澄江、井手俊郎、撮影:玉井正夫、編集:大井英史、美術:中古智、録音:三上長七郎、照明:石井長四郎、音楽:斎藤一郎、主演:田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子、1956年、117分、配給:東宝。


戦後十年ほどが経過した、神田川が隅田川に合流するあたりの花街・柳橋の置屋が舞台。

梨花(お春)(田中絹代)は、柳橋にある置屋「つたの家」で、女中として働くことになった。置屋の「おかあさん」つた奴(山田五十鈴)に気に入られ、梨花というのは呼びにくいからと、お春と呼ばれることになる。そこには、つた奴の娘だが芸者になるつもりのない勝代(高峰秀子)、つた奴の妹・米子(中北千枝子)とその娘・不二子(松山なつ子)、芸妓として、なな子(岡田茉莉子)、染香(杉村春子)、なみ江(泉千代)がいた。

お春が初めて訪れたとき、勝代となみ江が険悪な雰囲気で対座していた。なみ江が言うには、自分の稼ぎと検番から示してもらった金額とが違っており、置屋でピンハネしているのではないか、そうならその差額の分を返してほしい、というものだった。その後、なみ江は出て行き、帰ってこなかったが、数日後、父親がわりとなっている伯父(宮口精二)が、突然、金銭十万円の取り立てに来た。

そもそも、芸者稼業が順調でなくなってきたこともあり、つたの家自体も抵当に入っていた。つた奴の異父姉妹である姉のおとよ(賀原夏子)は、定期的に、つた奴や染香に借金を返済してもらおうとつたの家に取り立てに来ていた。つた奴は、かつて世話になったこの世界の先輩であるお浜(栗島すみ子)に相談をもちかける。・・・・・・


成瀬巳喜男としては、いずれも文芸作品の映画化である『稲妻』(1952年)、『浮雲』(1955年)などと、『女が階段を上る時』(1960年)、『放浪記』(1962年)、『乱れる』(1964年)などとの間に位置する作品で、これまた彼の円熟期の作品と言えよう。


置屋が舞台であり、女性がスクリーンの中心を占め、男性は、宮口精二と仲谷昇が数箇所に出るほか、加東大介、中村伸郎、上田吉二郎、松尾文人、佐田豊、堤康久がちょこっと出るくらいだ。女優陣ではやはり、戦前に活躍していた栗島すみ子の存在が大きい。成瀬に請われ、19年ぶりの映画出演となったようだ。名前しか知らず、初めてその姿を見たが、この役柄にふさわしく、また大女優としての貫禄も充分であった。


「女性の動きを」、「カメラワークで」、「素直にありのままに撮る」というのは、成瀬の映画づくりの上での特徴であり信念である。多少、脚本にほころびや停滞があっても、女優を、台詞のあるシーンでもないシーンでも、素直にありのままに撮れれば、多少のことはそれにより掻き消されうる、とでも考えているようなフシがある。

本作品では、これに加え、奥行きのあるシーンを故意に入れており、画面自体が単調にならぬよう配慮されている。さらに、ラストに近いところで、一階でつた奴と染香が弾く三味線と、二階で勝代の踏むミシンの音が相呼応し、芸者道と、勝代の選んだ「そうでない道」が共鳴し反響し合う演出もおもしろい。


芸者稼業の舞台裏を、その経営の大変さ・辛さからの視点と、その家族や係累とのかかわりからの視点で同時に描き、何気ない会話のやりとり、一瞬挟まれるカットなどの手法、そして何より女優陣の表情の演技力を楽しめる作品となっている。

カネにまつわる話があっても、それを隠すことはしないが、しかしどこまでも極めて婉曲な表現ややりとりとして、上品に片付けている。これは成瀬の他の作品でも同様だ。

冒頭とラストには、隅田川が映される。一軒の芸者の置屋の女たちの生活ぶりとそのなりゆきは、恰も隅田の<流れ>のよう、とでも言うようだ。成瀬映画のなかでは、最も傑出した作品である。


検番、おぶ、といった言葉、御披露目のシーンもあり、日本の情緒や文化をも味わえる作品に仕上がっている。こうした作品が日本に生まれたことを誇りに思う。ついでながら言わせてもらえば、若い人たちにも、年齢を増すにつれ、こうした映画もじっくり鑑賞していってほしいと思う。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。