映画 『甘い生活』

監督:フェデリコ・フェリーニ、脚本:フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネッリ、ブルネッロ・ロンディ、原案:フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネッリ、撮影:オテッロ・マルテッリ、編集:レオ・カトッツォ、音楽:ニーノ・ロータ、主演:マルチェロ・マストロヤンニ、アニタ・エクバーグ、1960年、174分、イタリア映画、配給:イタリフィルム、原題:La dolce vita(=甘い生活)


1950年代後半のローマが舞台。

マルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)は、作家を志望していたが、今では、上流階級の人々や芸能人のゴシップ記事を書いている。エンマ(イヴォンヌ・フルノー)という彼女がいるものの、仕事にかこつけて、出会った女性とは、すぐ近づきになるだらしのない男でもある。今夜も、ある公爵のプライベートを突撃しようと、高級クラブの前に、部下のカメラマン仲間と車を停めていた。

クラブの中で、富豪の有閑マダム・マンダレーナ(アヌーク・エーメ)と会う。部下のパパラッツォ(ウォルター・サンテッソ)たちはマンダレーナも追っかけようとするが、マルチェロは、今宵の取材の対象ではないということで彼らを追っ払い、二人でドライブに出る。・・・・・・


トレヴィの泉を国際的に有名にしたとされるマルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)とシルヴィア(アニタ・エクバーグ)のシーンは有名だが、これは、この3時間近い映画を構成するエピソードの一つに過ぎない。また、マルチェロという人物は最後まで主役として出続けるが、一貫したストーリーがあるわけでもない。


巨大なキリスト像をヘリコプターで運ぶシーンから始まり、マンタが打ち上げられたあとのラストシーンまで、全編に渡り、一般庶民の日常では「あり得ない」話が連続する。といって、イタリアの上流社会の人々がずべてこうした自堕落なパーティや乱痴気騒ぎが好きかと言われれば、それもまた違うだろう。

戦後、経済的にある程度ゆとりの出てきたイタリア、それも大都市ローマならではの退廃ぶりを描き出そうという魂胆が、初めからフェリーニの意図するところであったようだ。


これを映像化するために、いくつかのエピソードを選び、豪華なセットや多くのこぎれいな老若男女を用意し、市内の観光名所をふんだんに取り入れたのだ。当時、これを見たイタリアの人々、特にローマの人々は、大いに反感をもったに違いない。いや、これはあくまで映画という虚構である、と答えたいところだが、マルチェロはじめ何人かの女優は、その本名や本名をもじった名前で出演しており、かなりリアルなものではありますよ、というフェリーニの開き直り宣言が聞こえてくるようだ。


ローマにやってきたアメリカ女優シルヴィアの過ごす歓楽的な一夜のエピソードは、単純に華やかなだけなのだが、ここに聖母さまがおられます、という立木の話を信じ、その聖母を地上に招く少年少女の向かうほうへと、集まった大勢の人々が右往左往するようすは、上流社会への批判を通り越し、何でも不用意に信じてしまう人間社会全体への警鐘とも受け取れる。中盤に、マルチェロの友人が自殺するエピソードが入っているが、これさえも、ローマの産んだ虚無の作用とでも言わんばかりだ。


仕事のときのマルチェロの周囲には、必ず複数の部下のカメラマンたちがいる。仕事の延長でプライベートだか仕事だか判然としないシーンでは、膨大な数の人々が映っている。フレーム内において、この量的に多い、というのは、フェリーニのこれ以降の作品の特徴のひとつになっている。その一つが、1969年の『サテリコン』(Fellini-Satyricon)であり、ロケ以外にセットや巨大な工作物を多用しているが、退廃をテーマとするという点では同一線上にある作品だ。

報道という大義名分を笠に着て大勢で著名人を追っかけるカメラマンをパパラッチというが、その謂れは、そうした取材をする本作品のパパラッツォに由来する。


冒頭の巨大なキリスト像から、ラストの浜辺に打ち上げられたマンタに象徴されるのは、<あり得ぬような>巨大な存在や状態の象徴なのである。そのマンタの死んだような目がアップにされるところがあるが、人間たちに何かをうったえているかのように見え、或いは、ただ見開いているだけのようにも見える。

フェリーニは、ローマの有閑階級の退廃ぶりやバカ騒ぎを、どう是正するか、といった問いやヒントは放たない。退廃やバカ騒ぎを、<あり得ぬような>巨大な存在や状態として、こういう現実もありますよ、と、映画というエンターテインメントとして長々と紹介したに過ぎないのである。


マンタが打ち上げられた海岸にマルチェロらが向かうとき、昨晩女装で踊っていた青年に、60年代はもっと堕落しているでしょうね、といった台詞がある。

このあと彼ら彼女らはどうなったのか・・・誰も知る由がないが、ラストでのマルチェロと美しい少女のやりとり、さらにその美少女の最後まで消えぬ微笑みが、何をか暗示している。


しかしそれにしても本作品が、『道』(1954年)と同じ監督とは思えないのである。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。