監督:成瀬巳喜男、脚本:井手俊郎、原作:エドワード・アタイヤ 『細い線』、撮影:福沢康道、編集:大井英史、美術:中古智、録音:斎藤昭、照明:石井長四郎、音楽:林光、主演:小林桂樹、新珠三千代、1966年、102分、配給:東宝
雨上がりの歩道をひとり歩く田代勲(小林桂樹)は、ふらりとバーに入る。その姿をガラス越しに杉本(三橋達也)が見て入ってくる。その後、そのバーの近くのアパートで、杉本の妻・さゆり(若林映子)が絞殺されているのが発見される。犯人がわからないまま時は過ぎ、同時に田代は塞ぎ込むように落ち込んでいった。田代は、妻・雅子(新珠三千代)と二人の子、それに自分の母(長岡輝子)と暮らしており、初めのうちはみな、仕事で疲れているという嘘を信じていたが、ある台風の晩、これ以上黙っていられず、田代は雅子に、秘密にしていた真実の半分を話した。つまり、数か月前のことではあるが、自分はさゆりと関係があった、と言うのだ。しかし、もう今では何ら関係はない、ということで、最初驚いた雅子も、二度とそういうことをしてくれるな、と念を押し、二人だけのことにした。
田代は相変わらず元気がないため、会社の配慮で、一人で温泉に行く。自宅に電話し、雅子にも来てもらう。二人で散歩するうち、以前の話には続きがある、と切り出す。実は、さゆりを殺したのは自分である、と。雅子は愕然としたが、自分たちや子供たちの将来を考え、二人だけの胸の内にしまい込み、悪い夢を見ているのだとして忘れ去ろう、と提案する。・・・・・・
原作の「細い線」という言葉は、田代が雅子に犯行の一部始終を話すとき、現実と夢の世界の間に「細い線」があって、いとも簡単に、そこを行き来できてしまうんだ、という台詞に出てくる。
初めて田代が雅子に、浮気していたことを告げるのは、雷雨で停電し、蝋燭の灯をつけた直後のことであった。本作品には、雨のシーンが多い。冒頭、田代が歩いているときも、雨上がりで、歩道は濡れ、行き交う人の中には傘を持っている人もいる。
成瀬巳喜男にしては珍しいテーマであるが、ラストの雅子の決断と行動に、雅子のなかの「もう一人の女」が出現する。女の中にいる他人とは、そういうことなのだろう。
田代が、降り続く雨のようにうじうじしている一方で、雅子は夫に尽くし、浮気を告白されてもほとんど動ぜず、殺しを告白されても、夫の味方を通した女だ。田代の自首は、いままで夫ありきで夫を支えてきた雅子にとっては、これら大前提をひっくり返すことであり、裏切りでもあった。夫を自首させないようにするには、雅子のなかのもう一人の女が出現し、夫を殺害するよりほかになかったのであろう。雅子のこうした心の変遷を、カメラワークや照明、編集のうまさで、<きっちり描き出した>作品である。
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