映画 『きみはいい子』

監督:呉美保(お・みぽ)、原作:中脇初枝、脚本:高田亮、製作:川村英己、撮影:月永雄太、照明:藤井勇、録音:吉田憲義、美術:井上心平、編集:木村悦子、音楽:田中拓人、主演:高良健吾、2015年6月、121分、配給:アークエンタテインメント


『そこのみにて光輝く』(2014年)に次ぐ呉美保の作品。小樽市をロケ先にしているが、小樽という街の特性には触れず、遠くに見える海、観覧車(2015年10月解体)、坂や通り、川沿いの公園がよく映される。


岡野匡(高良健吾)は、新米の小学校教師、水木雅美(尾野真千子)は、夫が単身赴任のため、ひとり娘あやね(三宅希空)と暮らす若い母親、佐々木あきこ(喜多道枝)は、認知症の初期症状が出始めた独居老人である。これら三者を軸に、それぞれが出会うことなく、群像劇のかたちをとり、同時平行で物語が進んでいく。


岡野は、授業中におもらしをした男児がいて大童(おおわらわ)になり、その母から担任としての対応を批判される。先輩教師からは、平等の手前、男子でも女子と同じく「さん」づけで呼ぶよう指導される。クラス内には、義理の父親と住む男児、雄太(浅川蓮)もいて、5時を過ぎなければ帰ってきてはいけない、と言われている。同僚の大宮拓也(高橋和也)は、あまり気張るなよ、と声をかけてくれる。こうしてクラス運営に手を焼き、たまに実家でもある姉夫婦の家に行き、愚痴をこぼしている。姉夫婦の子供に膝に乗って抱きつかれ、「がんばって」と言われる。

水木は、近所ものお母さんグループといっしょに、親子でよく公園でランチを食べたりするが、周囲に溶け込めない。そんななか、大宮陽子(池脇千鶴)には親近感を抱いている。雅美は何かにつけ、あやねに手を上げるが、それは、自身が親から受けた暴行の裏返しでもあった。ラスト近く、陽子は、自分も同じであったから、あなたの気持ちはわかる、と言って、雅美を抱き締めるのであった。

あきこ老人は、両親と戦死した弟を、毎日仏壇で拝む。朝、家の前を掃除していると、必ず挨拶していく少年がいた。弘也(加部亜門)という小学生は、あきこの顔を見ると、「こんにちは、さようなら」と言って去って行く。ある日、あきこは認知症のせいか、無意識にスーパーで料金を払わずトマトをバッグに入れて店外に出たところを、櫻井(富田靖子)に咎められる。その櫻井は、弘也の母親であった。


これら三者に、関係性が全くないわけではない。弘也は発達障害をもった子であり、岡野が通う小学校の支援級の生徒である。岡野の同僚の大宮は、雅美のママ友である陽子の夫である。しかし、三者は直接間接に交差することがない。

家庭に問題のある小学生、クラス運営に悩む教師、子供に暴力を振るう母親、育児放棄する継父、ボケの始まったひとり暮らしの老婦人など、現今の社会問題が集約されたような内容である。しかし、互いに交差はしないものの、それぞれが、自分のありかた・生き方を誠実に模索している。それぞれ牽引関係にはなく、そのようにあえてしていない構成であるが、つなげられていくと、観る側には、それぞれがそれぞれに波紋を広げていくように、関わり合って見えてくる。


いつも5時前まで校庭に隅にいる雄太が、今日はもういない。雄太の毎日の食事は、ほとんどがパンと本人から聞いて、岡野はショックを受けていた。雄太は揚げパンが好きとも知っていたので、岡野は、今日の給食に出た揚げパンを食べずに、雄太に上げるつもりでバッグにしまった。岡野が校舎の時計を見ると、ちょうど5時であった。だからもう雄太はそこにいるはずがなかったのだ。岡野は雄太の住む古いアパートの自宅に、駆け足で向かう。一度、雨の中、雄太を送ってきたとき、継父らしき男(松嶋亮太)に口汚く罵られている。今日こそは、教師としてしっかり言うべきことを伝え、主張するつもりであった。覚悟を決めて、扉をノックする。二度ノックするが、中から返事はない。と、そこでスパッとエンディングになる。この演出はなかなかよい。


クラス運営がうまく行かない岡野は、生徒たちに宿題を出す。それは、あしたまでに、家族の誰かに抱き締められてくるように、というものだった。翌日クラスの生徒に聞いてみた。みな、抱き締められており、その感想を一人ひとり話した。

この「抱き締める」は、本作品のキー概念である。実際に抱き締めるシーンには、雅美に対する陽子、甥っ子に抱きつかれる岡野、があるが、弘也に対するあきこ老人や母の思いも同じことである。


冒頭、あきこが、外を舞う木の葉を桜の花びらと見間違う。演出上、この葉は、大き目な桜の花びらの形にしたのだろう。ラストでは、走る岡野の上をはじめ、それまで登場したさまざまな場所にも、同じように大きな桜の花びららしきものが舞い散ってくる。三者全体が、桜という幸福の象徴に、抱擁されているという演出なのであろう。


本作品は、妙に背伸びせず、同じ地面の上に立つ人間が、同じ地面の上にあるさまざまな境遇の人々を、リアルに・細やかに描写し、その上で、不遇の子、発達障害の子、親から受けた暴行がトラウマとなっている女性、ボケ現象の始まった老婦人をはじめ、この映画に出ていないこれらに準ずるすべての人々をも、暖かく包み込んでいるのだ。


ラストの演出と弘也を演じた加部亜門の演技が秀逸だ。また、老婦人が戦争中の空襲の話に触れる点も評価したい。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。